2009年09月22日

神音の役割

僕のコーヒーの味づくりの最大のテーマは

「あかるく豊かなインパクトと舌や口に残らない綺麗なあと味、やわらかな陶酔へ繋がるようなさりげなくも深い印象」

焙煎を極めるなんて程遠く、修行も半ば、毎日試行錯誤だけれども、農作物としてのコーヒーの持ち味を出来る限り引き出して、抽出からお客様の目の前の一杯になるまで気を抜かない。
当たり前のことかも知れないけれど、すごく難しい。。


専門店はいろいろあれど、神音は「農家カフェ」としての役割を極めたい。
自家焙煎コーヒー豆の販売、それ自体一筋縄では行かないし、喫茶店として抽出を極めることも然り。
だけど、お客様のイメージすることはまさに十人十色。
「カフェ(kaffee)」と銘打ち、菜園とパンやケーキに取り組むのはその「お客様の幅」に添いたいから。

農家レストラン、パン屋さん、ケーキ屋さん、、はたまた野菜の直販。
全てを充実させお応え出来ればどんなにかいいだろうとは思う反面、
「自分達の気持ちを丁寧にこめられる量」
「作り置きしない、素材の鮮度を味わっていただく」
そんな「ものつくり」としての想いはやはり強く、量産や従業員を入れての事業の拡大は、気持ち的にも経営能力的(こっちのほうが大きい)にもかなわない。。。


全国の旅行雑誌にも紹介していただいたり、インターネットで見つけて下さったり、、最近は特に遠方よりお越しのお客様が増え、本当にうれしいやら申し訳ないやら。。


この土地に入り、町のおとうさんおかあさん達と一緒に草を刈り、土を起こし、種を蒔き、お宮さんでお祭りを重ねて、つくづくここに住める事を誇りに感じている。
そして、長靴にほっかむりで農作業の途中にコーヒーを飲みに来てくださるおばあちゃんたちが「昔は(冠婚葬祭、お祭りお祝い)よくそれぞれの家により集まっては食べ物や飲み物や囲炉裏を囲んではああでもないこうでもないと話したもんだけど、最近は全部セレモニーホールやら式場やらで大きな家が寂しい。ここ(神音)が出来てまた皆が寄れる場所が出来たし、外から若い人や賢い人がたくさんこられて、話すのも楽しい!」と重宝がられて。
「今日は東京ナンバーのお客さんこられ取ったね!すごいねぇ!ねぇ!」と満面で喜んでくれる。


その笑顔に触れたら、これは自分の経営の店なんだけれど、町に風を入れて賑わいをもたらす町の財産みたいに扱われて、大事にしていただいて。。自分はこのコミュニティに必要とされ、役割を果たせる立派な人間になりたい!と自然に思えてくる。

実際不慣れな山里暮らしに、町中が気遣いを下さっているから生きてゆけるのであって、はやく「親」に頼らないで「自立」しなきゃというプレッシャーでもあるのだけれど、これがまた心地よい。

過疎高齢化「限界集落」といわれるこの町はしかし、今都市部では見られなくなった「あこがれの大人」像がある。

そういう自立した山の男になりながら、むさくるしさをなるべく排除(苦笑)しつつ、カフェの自由で有益な役目を果たせるよう、じっくりと取り組みたい。
なんせ、ライフワークだから。今無理をして続かなければ意味がない。


引き続きお客様には気遣いを求め、(立地ももちろん)不便にお付き合いいただく事となるけれど御理解賜れますよう毎日精進していきます。
posted by 農夫見習いパパ at 12:24| Comment(0) | カフェ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月06日

麹味噌

菅池町のおかあさんと共同で今年も麹味噌を仕込んだ。
材料は近所で育った大豆と北海道の大豆、能登の粗塩と食塩、自家米から麹屋さんにふかしてもらった白麹。
このあたりでも「寒の水を使って味噌を仕込むと失敗しない」との言い伝えからこの時期に仕込む人は多い。(実際はまだ寒に入っていないけれどwちょいフライング。)

昔ながらの製法と、昔ながらの杉桶と瓶で最低1年は寝かせる「田舎味噌」寝かせる程に芳醇な香りとまろやかで深いコクを持った味噌に仕上がってゆく。じっくり熟成するまさに「生きた味噌」。

こんな味噌は最近ではどこにも無くなって来た。
味噌仕込みは重労働に加え、良い材料にこだわるとコストも跳ね上がってしまう。
核家族化、外食増加傾向でお米消費と同じく味噌も一家族あたりの消費量が低下しているのは間違いない。


生味噌はデリケート(酵母は生き物)なので保存食品だけれど販売するとなると気を使う。有用微生物としてカビ菌を食べる事はブルーチーズはスーパーに並ぶのに、味噌のカビは敬遠される。。
乳酸菌の具合、種類、お漬物しかり。
農家の自家製はパーソナルな菌環境と嗜好を反映するので、化学的に平均値に慣らされた現代人の味覚(知覚)にはピンとこないかも知れない。
これは物流とサービス業全般の肥大に歪に対応してきた保険衛生の役所対応の弊害なのかも知れない。


戦後の牛乳信仰のように、日本人のカラダにそもそも備わる酵素抗体を無視した「データ」的食生活の蔓延。
そこに人間の生き物としての『食』の風景から感性を鈍らせ、まるで鶏舎のブロイラーのごとき「与えられた良品」に汚染され鵜呑みにする消費者の無責任な姿がある。

粗雑なものを良しとし(または「安全という文字」を妄信し)たのは自分であるのにそのくせ、『だまされた!』『毒を盛られた!!』と偽造を騒ぐというのはどこかエゴイスティックではないか。。

なぜ疑わないのか。そして疑ってもそれは拒絶するという事とはイコールでは無いのに、角が立つのを嫌うのは日本人だからか?
結果の逆切れのような感じがして、なんだか決まりが悪い、、
「危ないかも」と思いつつ摂取していた人は「やっぱり。。」とショックを受けるかもしれないが、たとえばその食品の成り立ちが理解できるひとならば、そもそもその値段でその商品が流通しているということはどういうリスクがひそむのか推察できるようにも思えるけれど、
それは偏った考えだろうか?

見えないものを疑うのは生物としての人間の自然な姿だと思うけれど、
衣食住、その成り立ちを知ろうとしたり想像したりするという感性そのものの育ちを人生のどこかで機会損失してしまうという、社会の教育力低下が背景にあるのかもしれない。職業、職能や仕事と生活全般に対しても「生活」の根底を固めてかつ潤す「感性」その一部に食がある。

話はいつもながらずれまくるけれど、そう思うので世の「食育」という言葉自体のそもそもの偏りを感じて僕は疑問。「感性育」ならわかるけど。
「派遣村」に感じる違和感は「果たして本当に助けるべきはその人たちか?」という事。



現在流通し最も多く消費される味噌は、科学的にサラダ油を製造する副産物の「脱脂大豆」と足りない旨みと減塩によるインパクト低下を補い添加する「アミノ酸」。そして保存料など。安いしょうゆの表示を見てみるとこれも実によく似ている。
量産し、販売して利益を生もうとすれば仕方が無いだろう。
おいしいマーガリンと同じエンプティーフードのお仲間だ。
丸大豆味噌でさえ醸造時間の短縮のため旨みを引き出せず化学調味料(あるいは最近流行の「たんぱく加水分解物or○○エキス」)を添加していたり。

何より、製造の立場にいるとそもそもの「食品表示」ということ自体の曖昧さがすべての流通食品の闇を作っている事を確信している。
一括表示、キャリーオーバー(一次加工時に添加した添加物も二次加工字に有効でない場合は表示する必要が無い)、)有効って何??
多分化学的に保存などの効果が「保障されないレベル」って事だろうけれど。
食品それぞれに基準やポイントがまちまち、抜け道だらけ。

食品の最終加工者(いわゆるその出来上がった食品の製造者)すら知らない二重三重の加工段階が存在し、さらに遡った農産物の産地に何があるのか、、
見抜けない、見過ごす。そんな加工者の「良心」を信じる。その危険。


これらは本来の食品とは似てまったく非なるもの也。
僕にとっては「流通」という距離こそすべて疑いの対象。

真っ暗闇に近い「コーヒー」を扱う店主のジレンマ。

エチオピア系流通のコーヒーの残留検疫のその後の情報。

確かに零細農園の多い地域では様々な農薬の種類や使用基準値の徹底や教育は不徹底。それは高齢化した日本の農村でも同じ事。
果実表皮に添着した農薬が収穫時の袋や籠に付着>貧しい農家が収穫精製(乾燥脱穀)後再びその袋や籠をリユースし、種子であるコーヒーを入れる。付着>流通>超厳しい基準値に引っ掛かりアウト。という可能性。

そもそも世界に名だたる大産地で、良質な豆を大量に産出していて無農薬とは思わないし、有機栽培の銘柄では無い。

日本でコーヒーという農産物に設定された農薬の残留値(ppm)は他の野菜などの基準値よりさらに厳しく、世界基の平均準値よりゼロひとつ多い厳しさ。生食は先ずありえず、高温での焙煎という加工と、抽出という工程で最終的な1杯のコーヒーからは検出さえ出来ない値だという。
にもかかわずなぜそのような不適確な値を設定してあるのだろうか??

お役所仕事のなせる技か、はたまた外資・外国益・外国企業の陰謀かw。



ああ、なんという駄文、、まさに冗長で自分でうんざり。。。
読んでくだすった方ごめんなさい、、、

豆のおいしい話を書こうと思ったのに(涙。


今、家族の食卓と神音カフェのメニュー「地豆と挽肉のカレー」に使われる味噌は一昨年のこの時期に仕込んだもの。
上質のワインや日本酒に通づるようなフルーティーで華やいだ香りと大豆と麹が引き出す心地よい甘み。
それこそお出汁を上手に取れなくともお味噌と野菜の旨みだけで上等のお汁が出来上がる。味噌酵母がすばらしい働きをして凝縮された天然のアミノ産たっぷり発酵調味料。

おかあさんはこのお味噌を使ってこれまたすべて手作りで、にんにく(もちろん自給、時種)味噌などの絶品風味味噌(当然人気商品!!)を神子の里に出品しておられるので仕込みの量は半端ではない。

大人の男性が余裕でしゃがんで入れる程の杉桶(もちろん年季モノはもちろん。その昔お父さんの親類が腕のいい桶の職人さんの作)2つと焼き物の瓶。。
それを一杯にする味噌の仕込みはまる1日仕事。

今まではお父さんとお母さん二人でやってきてたが去年より僕も参戦。
今年は妻も参戦。はかどるはかどる。僕も体が覚えてきていてすべての大豆と麹の併せ具合も温度管理もムラ無く出来て満足!

一年後のお楽しみ。


手前味噌などと言ってお袋の味と同じく「ぐっと感性に踏み込む味」は人によって違うし、自分のうちの味噌が結局一番という感覚は良くわかるが、このお味噌ばっかりはどこへ出しても必ず高評をいただけること請け合いだと思う。残念ながら味噌そのものは保健所の「味噌製造業」の許認可が無い為販売できないが、過熱加工(調理)されている「風味味噌」は惣菜として販売中。。とお世話になってるので宣伝もしてみる。

posted by 農夫見習いパパ at 00:43| Comment(9) | メニュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

ヴェルヴェティーン

何十年もかけて年輪を重ねた木が、鉄の刃で切り倒され、割られ、燃やされる。そのいのちの蓄積からすればほんの一瞬ともいえる僅かな時間に熱エネルギーと光と灰に変わってゆく。

薪ストーブの炎はうつくしい。

炉の温度が上がり酸素供給を絞った時、ガス化した木の成分が完全燃焼してゆく、ゆらめき立ちのぼる炎はまるで風に揺らめく天界のヴェルヴェット。薪から少し浮いた場所でオーロラのように漂い宙を舐める。

大きな窓のストーブにして本当に良かった。

そしてなにより暖かい。。
冷え込む日でもその前で数分佇めば体の芯が温まり、移動しても暖かさがついてくる。やわらかく力強い暖かさだ。

時間はかかるが広く天井が高い家の中心を確実に暖めている。

火の神か、火の精か、、
鉄とレンガとガラスに閉じ込められ、長い長い煙突に吸い上げられ、
神音の家に休む人間を暖めるために幽閉されている。
いや、、本来足元の地球の核にも精神の奥底にも、そして宙のかなたにも燃えさかる根源の炎を覗く窓なのかもしれない。



薪は見渡す限りこの山のあちこちを人の暮らしに沿った「里山」に還す作業から無限に生まれてくる。
雑木林と薪炭林の植生になるまでに何十年か、そしてその先も。
自然と寄り添う形を模索するにはなんとも好ましく、うつくしい道具。

昔は暖炉のようにして、囲炉裏や竈、風呂に薪をくべていた。
薪が燃える匂いは虫や害獣を離し、その煤は家の木材を強化する。

火をコントロールすることで猿から人へと変わっていったというが、
現代の暮らしから火は消えてしまった。

石油の炎と原子の力は人を賢くしたのだろうか?




あまりの心地よさに意識が遠のく程、夜更けのストーブの火の番は愉しい。
温まって、今年の仕事に切りをつけて、ほっくりと床につくと、永い夢を見た。。

女神を崇め、つき従う小さき卑しい自分が、やがて根源なる海に彼女を見送らねばならぬという。。
小さく卑しい自分の精神はその事実に耐えられず混乱する。
しかし、大きな意思に突き動かされ、その真意もわからぬまま、納得など到底出来ぬまま、別れる。

仕方がないのだ。。
その喪失感。
マゾヒスティックかもしれないけれど、
その感じが僕の心を潤わせ、根底から動かし続けている
posted by 農夫見習いパパ at 23:35| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月30日

たべものと食品

県の食品安全対策室から、保健所を通じて「食品製造業」関係者向けの講習会が開かれ、出席してきた(臨時休業となり、ご迷惑をおかけいたしました、、)。

神音カフェでも「菓子製造業」の看板があるため受講必須なわけだが、話を聞きながら、食品を取り扱うものの基本的な衛生への取り組み(飲食店営業)とは違う次元の時代の闇を感じさせるものがあった。

昨今の食品汚染や表示偽装、それによって引き起こされた信じられない様々な健康被害。
食品は人のいのちにダイレクトに繋がる事なんだけれど、製造や流通、経営的視点からすると食『品』なんだなあ、『モノ』なんだなぁ、、
「添加物の一括表示」「一次加工品のキャリーオーバー」「製造者の良心」。。?

確かに、製造した場所と販売される場所が別個の場合、的確で正確な表示と説明は不可欠だと思うが、こうして講習会を開いて危機回避を図る事自体、『食』を製造する場面に精神性が欠落している顕れなんだとうなぁ。。と思った。

何かを「添加」しなければ安全を保障できない。
何かを「あいまい」にしなければ商品価値が下がる。
そしてそれらの『安全対策』はあまりにも機械的に、役所的に施行される。

食品は基本的に『生もの』。時間を置けば痛むに決まっているし、味だって落ちる。元来持ちがいいものもあるけれど、ほとんどの場合それは当たり前のこと。
大量に生産し原料コストや流通コストを抑えて利益を確保する。それを「お客様」へフィードバック??危険に晒した挙句の奪い合いの間違いでは??



しかし、結局のところそういう状況を作り出した半分の責任は消費者にある。疑わず買う、だまされたと騒ぐ。それはあまりにも無知で愚かな態度ではないか?

食についてどう考えるか?食とどう付き合ってゆくのか?その姿勢を一人一人が問われているのに、ライフスタイルもろとも画一的に操作されて振り回される。

資本主義経済の下、「消費」から知恵が奪われ「生産」出来ない国になった日本。連綿と繋がる人の営みを預かり、活動できる人々は自助努力をせず何を救うつもりなのだろうか?
少なくとも、自分達の老後、孫の世代のために何かを残してあげられる力は欠落してしまっている気がする。


菅池町。
ここに「今」生きる人々の生涯の生産活動は膨大だ。しかし老年の後期を向かえつつある今、それらはどこへ行ってしまったのだろう?
資産としての価値はほとんど無い。
誰がそれを言わしむるのか?

「農」の強さ「農家」の強さは、「食」を自らの「いのち」を自らが育み循環させる「力」を持っているということ。この知恵を引き継がせず、離れさせて失わせたのは政治なのだろうか?



『不買』と『生産』。それが僕の選択した道。
ひとつ品が売れないくらいで経済は変わらない。けれど一票。
ストレスの下、自分をすり減らせる生活で費やしたエネルギーを農作業の、農村生活のエネルギーに置き換えたらどれだけ豊かだろう?
そう考えて今、薪を割っている。
posted by 農夫見習いパパ at 22:49| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月25日

親が僕につけた名前「一樹」(いちじゅ)
自立し、足下の土と微生物、地表の虫や動植物を守り、風を受け天を目指す。自分自身がしっかと立ち、その前提の上で小さな生態系を循環させる「樹=大きな木=高齢の木」たれと。
逆に言えば、身の回りの環境が整わないと「木」で終わってしまい
「樹」にはなれない。
すなわち、自分が立つその環境を自分で整備し、身の回りの実に複雑で偉大な自然と早くに協調し溶け込まなければならない。
人の上に立つとか、事業を成し遂げるとか、友に恵まれるとか、身近な想いは込められないが、自己中心的だったり、場当たり的だったり、賭けに出るようなことは許されず、律せられ、縛られている。

名によって。


思えば僕の環境というものへの意識や流れてゆく時間への考え方にはこの名前が深く影響している。

父親に名前の由来を聞いたことは何度かあるが、その意味を繰り返し聞いたのか、それとも早い時期から自分の名前が気にいって意味づけしていたのか。。
少なくとも幼稚園時代は「いちじゅなんておじいちゃん(と思った)みたいな名前は嫌だ!」といって「かずき」と読んでもらっていた。
おかげで未だに帰省すると父も母も「かずクン」と呼ぶのでなんだか可笑しい。。(自分で「イチジュ」とつけたくせに)

小学校も高学年頃から、中学生時代は美術が得意で「人と違っていること」が心地よく、違っていることを周りの人々が「認めて」くれているように(都合よく)感じていた。
このころからすでに天然の楽天家、シアワセ者の兆候はあったのかもしれない。当然「イチジュ」という変わった名前が誇らしかったし、いちいち意味を説明して得意げになっていた気もする。

「ゲド戦記」や「ナルニア国物語」「指輪物語」を読みつぶし、自然と魔法、神(意思)と人間、そして生き方と名前(アイデンティティ)について夢想する中学高校生時代。

大学に入って、必死になって自己同一化を図っているそのとき、両親は離婚し父親が仕事仲間にだまされて抱え込んだ借金で、早急に自立する必要に迫られた。未だに育英会に自分で学費を返し続けている。


自然由来の名前をつけられて、さらに、なんだかタイソウな哲学的な仕向け。本の虫、パソコンの虫、仕事の虫の父親の仕業。



父は「直樹」岐阜の自然を愛している。渓流の美しい自然の中に幼少時にしょっちゅう連れて行かれた。父親も子供の頃金華山の雑木林を走り回り、川で泳いで育っていった。今彼は趣味の鮎つりを通して自然と関わってはいるけれど、その接点は本当に小さなものだ。(仕事の虫)

だけどそれを僕が引き受けている。

自分の名前を気に入っている。
名に恥じぬ生き方をしたい。


posted by 農夫見習いパパ at 21:02| Comment(0) | 菜園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月21日

快適とは

okinawamurasaki.jpg

エアコンとモードファッション、ハイテク新素材の低価格アパレル。
カッコ良く快適に『纏い』室内空間を自然の気温に抗って操作する。

とはいえ、石油由来の製品に長期的な見通しは望めなさそうだし、天然素材にしても経済の大きな流れのうちにほんとうに身近なものは失われてきている。。



たとえば、化学調味料。
旨みを感じ取るレセプターへ効率的に反応する「グルタミン酸」等のアミノ酸類。最近は『化学調味料無添加』とうたっていても『たんぱく加水分解物』や『○○エキス』なんかで味の複雑系を表現しようと工業製品のように食品が製造されている。それが当たり前になっている。

『食』への関心が高い時代と言われるが、人間の生態としての根源に関わる割りに経済活動と消費に大きく左右され「選べない」のが現実。逆説的だが強い意志をもって「選ばない」消費者の責任でもある。



たとえば高気密住宅。
これもハイテクの粋を行く低価格、高品質(といわれる)新建材で密閉された空間。オール電化で空調を効率化し、バリアフリーで「人にやさしい」空間を創造。30年で建て替え、住み替える現代的な住宅消費のスタイルに従い当たり前のようになっている。

結果。大手がパッケージ化した建材・工法以外の「町の職人(大工・戸大工・左官・瓦屋。。)」が排除され伝統的な技術や知恵が消えてゆく。これを文化破壊と言わずしてなんという。



『快適だから』『おいしいから』『心地いいから』

果たしてその感覚は本物なのだろうか?
街中や住宅地に住む人々から『不自由』とひとくくりにされる田舎、山里の暮らしに入って感じるのは、生き物として人間としての不安定で揺らぎのある日常に対して、自然界には無い化学的に生成された食品を日常的に摂ることや、森や林にあふれるエネルギー溢れる空気をわざわざシャットダウンするのは無意味であるということ。
プライベートと人間的な暖かい交流やつながりの喪失、経済成長と車社会と空気汚染。コンビニと光害・生活時間帯の崩壊。
それらを加速させるのはいったい何なのか?
感覚を鈍らせるものは何なのか?



こんなことを書くとあたかも里山の文化伝統に深く傾倒し、ストイックに生きているような印象を与えてしまうかもしれないが、そんなことは無い。
むしろ、コンビにでもファミレスでも普通に利用するし、冷凍食品もスナック菓子も食べる。多少の罪悪感を感じつつだが、それらで真に「おいしい」とか「快適」であると感じたことは無い。
仕方ないから、もしくは考えたくないなどの逃避行動に近いものがある。
世の中皆が逃避してごまかしあっているとすれば、これはとても悲しく切ないが、この家に住んで、この町に生きて、自然と寄り添っていると『家』のもつちから『自然』与えてくれるバランス感をしっかりと享受出来、壊れそうな自分を支えてくれているような気がする。


何よりこの場所での暮らしは「快適」そのものであるからして。


写真は今年初めて育てたサツマイモ「沖縄紫」本数は少ないもののいい芋がちゃんと出来た。けど、何かの間違いか花をつけたので珍しくて写真を撮った。サツマイモ農家の方に「確か花をつけると芋自体の味が悪くなる可能性が。。」と言われたものの、その方でさえも見たことが無いという「花」
異常気象を騒ぐのは大抵街の人。昔から時を間違える動植物はあって、村の人は純粋に見て楽しむ。
posted by 農夫見習いパパ at 10:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月07日

エチオピア

エチオピア、イエメン産コーヒーが日本への入港時に残留農薬が引っ掛かり差し止められた。アフリカ最大の生産量を誇るエチオピアは零細農家や無数の農協が実に広い地域でコーヒーを生産しているが、度々メディアでも取り上げられる経済格差からの深刻な貧困問題や、搾取的資本の関わりについても実際は日本では情報が不足しすぎていて判断出来ない部分でもある。

アフリカ大陸や中南米を指してよく搾取の歴史と現状を取り沙汰する論もあるが、どの国でも中央の政治から離れた土着的な暮らしは存在するし、生活に対する価値観というものはあくまでわれわれ資本主義経済の只中にある者からの偏った視点でしかない。

かといって、人権的な不均衡を正当化するわけではない。搾取的構造は確かに存在するのだ。与えられる情報と世間体に流されずに、客観的なスタンスを保ちつつも自分という固体がそこへどう向き合って行くか?が重要な気がする。地球環境の問題についても同じだとおもう。未知の部分にはとかく必要以上に警戒し、極端でわかりやすい反応を示してしまうのが人間の弱さの常(自己正当化)だと思うが、自分という命がもしかの問題国に生れ落ち、翻弄されているとしたら。。。そんな想像力が論の中から欠如しているような気がする。

確かに解らないものに自分を当てはめるなんて出来ない相談だろうけれど、今与えられている当たり前(と自分が思い込んでいる)価値観のうちいったいどれくらいまでが「ほんとうにたいせつ」なんだろうか?

音楽が好きな僕にとってアフリカは、南アフリカのレディスミスブラックマンバーゾであり、アブドゥーライブラヒム(ダラーブランド)であり、異郷の地に住まわされ閉じ込められたラスタファの聖地。ポールサイモンであり、ロバートワイアットであり。

ぜんぜん脈絡が無いのかもしれない。けど、社会科の授業で教わって印象的だった、つい最近まで横行し未だ解決していないアパルトヘイトという大きな社会問題を抱えた国の人間が発する声にしてはあまりにも明るくやさしい響きを持った音、声。
遠く離れた異国の人間である僕の心に触れるやさしい音楽。。

そこにあるのは共感の心。普遍的ななにか。

ブラジルや南洋の島々でもかつて殖民地であった時代の暗いイメージはかならず引きずっている。戦争の傷跡だって世界企業の大きな広告を上から貼り付けて隠してるだけ。
いつしか資本主義経済という新たな悪魔がグローバリゼーションという飛行機に乗ってより巧妙で残酷な搾取を行っているが、皆が搾取しあう今の時代、まるでお互いの傷を深めつつ舐めあうような生ぬるく苦しい世界に変わってきているような、、そんな暗い想像を働かせてしまう。。。

でも、世界を旅する音楽によって繋ぎあわされている。
そういう人間の温もりや繋がりをみなが求めて止まない。



神音カフェのコーヒーのうち、「かのんブレンド」に使用している『モカ・アビシニア』はエチオピアホマー農協の組合員である農園指定(複数の可能性はある)の生産する自然乾燥(ナチュラル)製法のコーヒー。水洗処理設備を持たない小農園の生産指導(より高品質で高価に取引されるコーヒー作りの営農指導)やナチュラルで起こりがちな発酵欠点豆の発生を防ぐ管理指導など、さまざまな取り組みを前向きに行っているという。
そこにどこまでの搾取的(と外国人が判断する)構造があるか?気になっているが、品質の高さから推察できる『農家のものづくりとしての良心』が感じられる所から深刻では無いと思いたい。

「御陵山ブレンド」に使用している『モカイリガチェフ』も同じくホマー農協の商品だが、水洗式でハイグレード。世界でも評価の高い高品質コーヒーだ。上記と同じ理由で信頼しているが、継続的な農業、継続的な品質向上への努力を意識していることは間違いないので、その中でより農家所得を増やし、更なる「おいしい(気持ちの良い)コーヒー」をつくって欲しい。

書いていてなんだか日本の農業に通じるジレンマを感じた。
「継続的・発展的・長期的」視点。。。そして経済。

もうひとつのモカは「よぼしブレンド」に使用しているイエメン産のクラッシックモカ『モカマタリ』。これはブランドが出来上がっている上、古来より農家が自立的に(自給的に)営農していた暮らしに基づいた国の背景が違うので安定的と思いたいが、近年品質が落ちていると言われたりしている。
個人的には昔のモカを知らないので軒並み「スペシャルティ」で「おいしい」コーヒーがあふれかえって影が薄まっているだけのような気もする。


すべて(全量)のコーヒーではないし、去年度の入港分は検疫を通っているので判断しにくいけれど、トレースできるところまでの情報では現地農協と輸出業者までの工程ではそういう薬品が使用されるような状況は無いとのこと。そこから先、いくつもの業者を通じて日本に渡るどこかで使用され、汚染されているらしい。それで、命令検査が入り、入った事自体でこの上記2国からの『モカ』が今年度ほとんど入港しない恐れがある。


ブレンドに使用しいているので、一部使用品目を置き換えレシピを変えるか、お休みしなければならないかも知れない。。お客様にはご迷惑をおかけすることになるが、うちのような小さなロースターは深刻な(量的な)状況には及ばないかもしれない。。
「おいしいコーヒーの真実」というイギリスのドキュメンタリーを御覧になった方は是非、中米やアジアのコーヒー生産の状況にも興味を持っていただきたい。国ごとに、地域ごとに問題を抱えている。
判断は簡単には出来ないけれど、やさしい音楽のように、明日を夢見て、地道に取り組む人たちがそれぞれの場所にいる。
その人たちを応援できるように、自分の力も蓄えていきたい。
posted by 農夫見習いパパ at 17:00| Comment(7) | カフェ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月26日

結い返し

ボランティアという言葉はどこか偽善的で押し付けがましいニュアンスがあるような気がする。無償で労力を提供する、無償で知恵を絞る、無償で時間を(経済を)提供する。。

そもそも、自立した人間が社会的に地域に助けられ、その「恩」を返すような形でなにか私財や労力を提供するのには相互関係を深めるものとして理解しやすいが、学生やモラトリアム的家庭人が、本来その人のなすべきつとめが解らず、また、時間をもてあましたり、精神衛生上やファッションで自分の今かかわっている現実とほとんど接点の無いような場所での「ボランティア」を語るケースが多いためそういうイメージが生まれたのか。。


過疎高齢化が進む山間の町に住み続ける人たちは、一人一人が「家」を守る柱としてしっかり立っている。人が足りないのだ。
でもだからこそ、責任もリアルだし、経営感覚にも優れている。
何代も続く「お家」のフローを考えて今後の流れをもつかもうとするその『心』はとても強いものであり、その礎となるのは「結い」という日本の相互扶助の精神の結晶を現実に体験してきたことだろう。

「結い」には必ず「結い返し」が必要である。
相互的であるからこそ、本当の痛みも喜びも分かち合い絆が生まれる。「損得抜きに」は、些細な損や得にこだわらず、すすんで繋がろうという意味だと思う。共有の財産があり、共有の想いがある。

しかし残念ながら、この「結い」は日本全国で同じくしてもっと大きな社会の変化の力には敵わず、、結いは戻されることなく散らばってしまっている。。

それでもまだ戻すことは出来る。戻すことにはとても深い意義がある。

背景を知らず、もともとの結いも無く、深くかかわろうともしない軽い「ボランティア精神」は長期的には意味が無いのではないだろうか?
ひとの暮らしは繋がってゆく。子供たちは地域の共有財産であり、地域はそれを迷わず大切にし、表現する。
どこの馬の骨ともつかぬ僕のような人間でも同じ想いを知り、分かちあうことでとことん大切にしてもらっている。
申し訳ないくらい、、

「申し訳ない」だから、僕は出来る範囲で「返し」続ける。
続けられるよう無理はしない。
それを許し抱擁するほどのやさしさと豊かさを備えているのがこの「菅池町」

この菅池町に新たな住人が増えそうだ。
休耕地を活用し大豆を作付けし、その大豆で豆腐を作るという職人が移住を希望しておられる。僕と同じ世代で「結い」を知ろうとし、実践しようとしておられる。

本当に楽しみで、是非実現してほしい。
そうなればまことに心強いし、町がさらに明るくなる。


、、僕がこの町に引っ越して1年と少し、その間にもう4回もお葬式があった。僅か27世帯の町。「限界集落ー数年で無人化する恐れがある過疎高齢集落」。ここに住む僕にとっては秒読みの危機感とせなかあわせに、絶対的な安心感のような、暖かく力づよい感覚に守られて未来を確信する気持ちがある。
posted by 農夫見習いパパ at 00:11| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

臨時休業と営業時間のお知らせ&広告

誠に勝手ながら3月29日(土)は臨時休業させていただきます。
日曜日が定休とあり、御利用いただきにくい営業で申し訳ございませんが、なにとぞご了承下さいませ。


7月にこの地区に開業いたしました『山の幸直場所/神子の里』の店長職の為しばらくの間短縮営業とさせていただいておりましたが、現在は

定休日ー毎週火曜・日曜
AM11:30〜PM5:30まで

で営業しております。ランチの日替わりのカレーも御用意しておりますが、限定食数となりますので御予約いただきますと確実です。お席もおとりいたします。



さて、カレー屋さんではないのですが(苦笑)3月14日の放送のMROテレビ『ごちそうフライデー』で「石川カレー百面相(仮)」というカレー特集企画で神音の『地豆と挽肉のカレー』が紹介される事となりました。5時ちょい前から6時ちょい前までの放送時間のうちの前半らしいです。。
数十秒ですが、もしよろしければ見てみてください♪
店主は営業時間中につきチェック出来ない予感、、殆ど使った事がないヴィデオ録画もできるだろうか?と不安です。。

もうすぐ書店に並ぶ(はず)のるるぶ石川のドライブ特集ような記事にも写真1枚くらいの紹介をしていただきます。
るるぶかぁ。。でかい発行部数だしすごいなぁ、、と分不相応にビビっています。いまさらながら。。

どちらも取材は終っていますが、取材自体は結構好きなんですよね〜。大学時代にデザインコースの体験の中でレフ板とかストロボもって食品写真撮る授業が面白かったなぁ。。と思い出されます。
雑誌もテレビもそれぞれの道のプロの仕事が垣間見られて楽しいです♪

以上。お知らせと雑談でした!
posted by 農夫見習いパパ at 16:39| Comment(11) | 営業のお知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

音楽とコーヒー

キューバの音楽に始めて触れたのは父親の影響でジャズ、ディジーガレスピーやケニ−ドーハムだったと思うけれど、それを「キューバのリズム、音楽」として噛みしめて感じ出したのはカチャオのCDを聞いてから。カチャオにしたって、ブエナビスタソシアルクラブにしたって、始めは『なんかカラダが揺れる独特のイイ感じ』とか『ユル渋かっこいい』とか思ってた(いわゆる頭で聞いていただけ)のような気がする。それが次第に大好きになっていった。。

店内の古い柱や梁、煤竹の天井に漆喰の白壁、、そこへキューバのリズムはミスマッチか?ケルト音楽は?
僕個人としては根源的なところで響きあう意外な親和性を感じている。

ラテンの音楽形式は様々だけれど、全般的に好き。
「シリアスでも明るい」「光を感じさせる音使い」「カラダの奥から揺さぶるリズム」。。

アイルランド音楽も深くてシリアスだったりしながらその音からは広い海原の包容力(自然信仰)が感じられて好き。
アイルランドから、ポルトガルから、ジプシーから、アフリカから、、音楽が出会って影響しあって、、オシャレで洗練されたスタイルもいいとは思うけれど、どこか土着的な感覚と明るさを合わせもった音楽に惹かれる。



『明るさ』と言えば、神音カフェでのコーヒーの味創りのキーワードのひとつでもある。
素材となる原材料豆の個性はとても大事な要素だけれども、コクや香りのきわだちにとらわれることなく、程よい印象を残しながらも後口に悪く響かない『明るい味わい』を目指したい。カッピング用語で『クリーン』という言葉があってそれに近いとは思うけれど、それだけでは無い、日本人が美味しいと感じる五味のバランスを意識して、コーヒーを嫌がる時に特に良く言われる『酸っぱい』『苦い』を『明るい爽やかな酸味(フルーツの新鮮な酸味)』『甘みを引き出す苦味』そしてコク、旨味成分にも通じるような塩味の印象、、(実際は植物であるコーヒーに「塩」は存在しないが、、)そういうものを理想にしている。

自家焙煎のコーヒー屋さんでは口を酸っぱくして(笑)言われる『酸っぱいのは酸化した(悪くなった古い)コーヒー』というセリフがあるけれど、実際は最近の焙煎技術向上と品質管理の向上によって『いやな酸っぱさ』を持つコーヒーは世界から消えつつある。
けれど厳然として「よろしくない工業製品的コーヒー」は溢れ帰っている。。
味わいが豊かでかつ後口も気持ちよい、、そんなコーヒーはきっと良いコーヒーだと思う。



よぼしブレンド:100g/530円

キューバ産のオーガニック認証コーヒーを主として、コーヒーの起源にもっとも近いモカ・マタリ9とホンジュラスの高地マルチネス農園で契約栽培された高品質コーヒーが香りに華やかさをもたらします。

神音のコーヒーの中ではもっともライトな印象(あっさりタイプ)で口当たりもマイルドですが、爽やかでかすかな酸味が香ばしさと甘さを引き立てます。
posted by 農夫見習いパパ at 16:01| Comment(0) | カフェ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。