2010年07月07日

叙情性

店内のBGMはi-podでシャッフル。
常時7-800曲くらい入れてあるけれど、季節毎に少しづつ入れ替えたりしてる。
ジャンルは縦横無尽だけれども、それなりのテーマはある。

ひたすら主観的な選曲であるが、それは僕なりの「リリシズム溢れる」背景音楽。
音楽レヴューなどで、ジョンコルトレーンのjazzを『リリシズム溢れる』と評しているのを、感受性が豊かな青春時代に信じ込んでしまって(刷り込まれてしまって)いるので、僕にとっては、どんなジャンルで、どんなスタイルで、どんな編成の音楽だろうとも、その『叙情性』こそが最大の選曲ポイントであり、何千、何万回と聞き続ける中でその奥行きの深さに、其の度に何度も何度も酔いしれられるような、、
そんな音楽に惹かれてしようが無い。。

『叙情性』の定義はいろいろとあるだろうが、いわゆる「ロマンチック」で「哀愁漂う」「きわめて私的でありながら、外部への発信、表現を洗練した詩的な」もの。だろうか。内省的でありながら、広く多くの人の共感を呼ばずにはいられない普遍性。
それは古きよき『ダンディズム』『淑女の気品』にも通づるような、極限にて着飾らない芯からくる美しさ。信念と美学を備えつつ、世を憂いつつ、べたべたにならないドライな表現、、
憧れるなぁ、、、
そういえば、最近テレビのロードショーで宮崎駿監督の「紅の豚」が放映されてたけど、たまたま地中海繫がりのせいか、「ニューシネマパラダイス」を思い出すような『リリシズム』が描かれてる気がした。

世の中理屈では無いのだよ。

だが、信念無き幸せは虚しい。と。


http://itunes.apple.com/jp/album/african-suite/id310156065

最近はサッカーワールドカップ関連で、南アフリカのjazzピアニスト「アブドゥーラ イブラヒム(ダラーブランド)」がテレビでも紹介されていたが、この人のピアノに感じるのがまさに『リリシズム』
アパルトヘイトの黒い闇と、jazzというきわめて自由な音楽の狭間で、一つの音に込められる奥行きの深さはこの人ならではだと思う。
posted by 農夫見習いパパ at 23:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

ちいさなせかい

菜園 024.jpg

きゅうりにズッキーニ、カボチャにトマト、ナス、ピーマン、、
マルハナバチにミツバチ、花アブの仲間、、てんとう虫、スズメバチに他の幼虫に寄生卵を生みつける蜂たち、カミキリ虫に、ウリバエ、紋白蝶に、蛇の目蝶、カメムシにバッタ、蛾の仲間たち、クワガタ虫に、ごみ虫の仲間、ガガンボにカ、小バエにブユ、しらみに団子虫にゲジ、ムカデ。。さまざまな蜘蛛たち。
いずれもが目に見えない小さな営みの連鎖にあり、
無駄なものは一つも無い。

土を起こし種を蒔き作物を植え付ける人間にとっては、大事な作物を荒らす「害虫」だって「雑草」という呼び方と同様に人間の都合だけで勝手に区別(差別)しているだけである。



子供たちと雨上がりの農道を、獣道のような柳田のあぜ道を歩く。
それは農地と山の境界線でもあり、人為的なものと自然との境界でもある。
もちろんハッキリした線は見えず、自然がぐいぐいとあちこちに入り込んできているが、それを食い止めて人が耕作している様子に素晴らしいコントラストがある。
「共存」の現象である。


以前田んぼから、レンコン田になり、そのあと畑にしようかと溝きりしてある箇所がある。レンコンはお米とは違い養分の高い土(泥)を好む上に、年中水が入っている。
その端っこにまだ水が抜けないぬかるみがあり、繁殖した藻と底の泥、水生植物によってちいさな「沼」になっている。
そこは用水の流れ道でもあり、山から養分を含んだ水が流れ込み、出て行っている。

網をひとすくい。
かえるも数種類、そしてサンショウウオ。
田んぼの近くのせせらぎには沢蟹や朽ちた流木や葉っぱの堆積物に潜む豊年エビ。夜にはちらほらと瞬くヒメホタルたち。

生物の多様性の中でも、昆虫の多様性が出来上がり深まるのにはとても長い年月がかかるという。
「植生遷移」という言葉と同じく「生物層の遷移」もとてもデリケートで年月を要するものなのだ。

えらそうに言う割りに知ったかぶりで、詳しくないのが恥ずかしいけれど、ここに、そのいきものの環の中に自分たちもいる。それを感じられる事が素晴らしく誇らしい。

、、害虫はつまんでは殺してしまう。。
心は痛むし、際限もなく、考え出すと泥沼にはまる様な悩ましい問題でもある。
が、百姓が許される殺生の範囲を識り、グロテスクでも、残酷でもない「あっさりした駆除」を心がけている。
その昔、それが出来ず野菜の足元に放り投げたおおきな青虫が、程なく同じ野菜に登り葉を食べることを再開するのを見た。
すべてがそうでは無いはずだが、一時の偽善の心から、殺生からの回避から、結局その生物のいのちを只乱し、そんな意思は無くとも、猫やシャチが食べる必要のない小動物をいたぶるが如き、「智慧による残酷性」を帯びるのではないか?
そう思い、一思いにつぶしてしまうようになった。
気持ち悪いという考えも、その死骸をありがたそうに運ぶアリ達の様子や、朽ちて土に埋もれ、土に還る様子を見ていると、程よく流れて消えていった。

其の悩みと収穫への欲望、いずれにせよ、何かが大量発生するような事は無いので、野菜が収穫出来ないことは無い。

無神経で無慈悲なのだろうと思う。
けれども、一網打尽にクスリを蒔いたり、消毒をするようなことはしまい。

それは、自分が必要とするこの慎ましくもお粗末な畑の範囲だけ、偉大なる生態系を邪魔してはいけないと考えるから。
そして、出荷したり、資金回収が主目的ではない「自給の場」だから。
ここに生かしてもらえるのは自分のコーヒーの技術と僅かな耕地活用と、この町の自然と人々の営みが合致しているから。
そのために発生する無限のような「野良の営み(草刈や害虫駆除)」は時給計算出来ない、するつもりも、必要も無い事。

なぜならば、人間が勝手に作った経済とは別次元の労働と無限の対価を頂いているから。
言葉では伝わらない「現実の息を呑むような美しさ」が。



今年も当然無農薬だが、特に夏に負けてしまう果菜類には緩効性で有機質養分を含む化成肥料を少し補っている。
しかし、それもカットして、ポリマルチを敷いて地温向上を図って堆肥を段階的に施しながら7年目のズッキーニに挑戦している。

今の所順調。寒春の悪影響は収穫期が一週間程遅れた位か。
長雨も無く木の痛みも無い。
心配で早く堀りあげたジャガイモは、品種によってはまだ小さかったけど、畑にもう少し残しておいた。

余裕を持って農作業をできるのはいい事だけど、
外出も、ごろごろうだうだしてる時間もほとんど無い。
「農」が中心にある生活とはこういうものなんだろうけど、
家族にはなんだか申し訳ない。。

少しづつ出来るようになってはいる。
町の人の助けを殆ど得なくても、一年の野菜を作ることを。
後数年かけて、お米も一から十まで出来るように。
そして、それらをスマートにこなし、時間を作れるように、がんばりたい。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

『夏野菜のカレー(カルダモンチキンベース)』を始めました。
なす、ズッキーニを中心に8月までは続けられると思います。
仕込みは毎日ではありませんので、「是非に」と言っていただけるお客様はお電話ください。

あ、それから、茂久葉農場さんのゴーダチーズをつかった
『トマトチーズサンド』も不定期ですが暫くご用意できる日があります。

あ、あ!コーヒーには『アイスコーヒー』に加えてアイスの『カフェラッテ』『カフェカプチーノ』も作ってマス。

ご来店心よりお待ちしております!!!

店主 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
posted by 農夫見習いパパ at 01:17| Comment(0) | メニュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月27日

有り難い

画像 108.jpg

「有る」「難しい」
そう。滅多にないから有り難い。

「与えよさらば得られん」とは、よく経営学や生き方を模索し学ぶ時に耳にするが、"Give and Take"であって、その順序が逆では都合が悪い。

でも、ここへ住んで自分はひとや自然に何かを与えることが出来ているのだろうか?
経済的には皆さんの想像よりずっと窮屈だけど、気持ちが窮することは無い。
それは凄く「あちこちから助けや援助を受けまくってる」から。


で、有り難がってばかりいる場合では無くて、ふとお返しがきちっと出来ていない感じで不安がよぎるのだ。
町の人たちは高齢化してもまだまだエナジーにあふれ、生産力にあふれ、喜びにあふれ生きておられるので、僕らはそのおこぼれにあずかっている構図だが、それがずううっと続くわけでは無い。

お客様も珍しい「少々話題性のある」この場所へ何とかたずねてくださるから商売がなんとか続けてゆける。。

本当に有り難い事。


自分がこの土地の自然の一部になって、循環を生み出し、人に何かを与えられるように。
力をつけて行きたい。
30歳を過ぎて付いた肩や胸の筋肉は、野良仕事と薪運びが原因だけど、この体に感謝している。
何かを生み出してくれるもの。それが自らの体であることを、女性は身を持って感じられるのだけれど、「農」を離れた現代の生活では男性がその感覚を得る機会が少なくなったのかもしれない。

もともと引き締まったところのない、情けない、インドア派バリバリの体系の自分でも、少なからず必要な運動と気持ちのマッチョイズムを満たしてくれる生き方でいられるという、この環境がまた「有り難い」。

画像 110.jpg菜園 013.jpg菜園 022.jpg
posted by 農夫見習いパパ at 22:22| Comment(0) | 菜園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月24日

農法とくらし

菜園 001.jpg

反省したなまくら農夫は、苦手な「育苗や鉢植え」を克服するべく、春先から畑に心を注いでいた。
そして、冬越しのエンドウやソラマメ、たまねぎ、大蒜の育ちはぼちぼちなものの、ちいさな育苗用(防寒)テントをこさえて、トマトにバジル、ズッキーニ、インゲン、ナス、ミニきゅうり(ピクルス用)、雪化粧かぼちゃをすべて種から育苗し、それぞれの畑に植え付け、活着し、今の所順調!

鉢植えも堆肥を活用しつつ、あさがお、るこう草、千成ひょうたんに、お客様から頂いた藤の幼苗、黒法師の鉢を手入れ。

菜園 003.jpg

じゃがいも、サツマイモもいい感じ、ジャガイモの試し掘りもよさげ。

そして、金沢からつれてきてずうっとしょんぼりだった、瑠璃玉アザミは株を広げ、ドライオレガノ作りも順調。
こぼれ種のカモミールとディルは力強く広がり、韮とねぎの種まき後の生育も順調。

、、なんだ、やればできるじゃん!

といい気になるのはまだ早い。
そのうち生い茂る雑草と、夏の暑さに悲鳴を上げて万歳しちゃうかも。。
只単に、この丸3年、この土地の自然の移り変わりと畑の土の様子をみながら「タイミングがなんとなく体に染み付いてきた」ただそれだけのことかもしれない。

化成肥料を使うことには抵抗があったけれど、畑それぞれの土の状態と、適正がなんとなくわかるような気がするこのごろは、ごく微量ずつ補うように試している。
それは、ゆくゆくちゃんとした堆肥やボカシ肥が作れるようになったら置き換えて行きたい。

農家見習いは、この町のばあちゃん達の見事な輪作と種取、土捌きにようやく一歩だけ近づけたような気がする。

ばあちゃんたちはもともと出荷が目的では無い。
それは生きる糧、そして心の糧、先祖への感謝、、そんな見えない「くらしのこころ」があふれた営み。

自然農法、不耕起栽培、無農薬、有機栽培、水耕栽培に、施設園芸。
土地利用型大規模農業と、家庭菜園。

趣味的な、時間とコストの浪費的な家庭菜園は「しょせん」といって馬鹿にされたりするが、土と植物を何年もかけてちまちまと観察することは営業農家、専業農家には生活との秤の上で難しい面が多いのも確か。

りんご農家の木村秋則さんの苦節の10年。
その道を目指す人は必ずそこを通らなければならない。
近道なんて無い。

だけど僕だって、コーヒー屋を、カフェを目指して10年以上経っているし、実現した今もたかだかスタート地点に立てたにすぎない。

家庭菜園も8年目。無農薬で、ほったらかしで。農家出身ではなく。
でもそれは多分これから一生つづける営み。
趣味ではなく。


収益性があるかどうかは継続にはとても重要な要素だけれど、
「農家である」ということの生命力の原点をこの土地に感じた僕は、
農業というものの世間一般の先入観から遠いところに、
満ち満ちた「くらしの密度」としての生きた農家の姿があると確信している。
それは倦厭されたり、卑下されたり、自己満足とやっつけ仕事の工場生産ではない、高い精神性をもった「憧れられる」営みである。

菜園 008.jpg菜園 006.jpg画像 112.jpg

これらはすべてこの家の廻りに大した世話をするでもなく毎年花を咲かせてくれている古い株のもの。

8年前から毎年僕の野良仕事を見守る睡蓮。

雪で曲がってしまったけれどきれいに咲いた。ちょっと前の桃の花。
posted by 農夫見習いパパ at 13:26| Comment(0) | 菜園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月03日

だめ農夫

DSCN1474.JPG
鉢植えは苦手だ。
何事も割とマメな方だと思うし、畑をいじってると「まめだね〜」とか「まめじゃないとできないよ!」と言われるが、こと、植物の栽培については大変大雑把、かついい加減であると自覚している。。

特に鉢植え、育苗、などの作業はどれだけ水をやればいいのか?科学肥料を使わないでどうやって肥効を保てばいいのか?とか、考え出したらまるで鉢の中でぐるぐる回って行き所を無くした根のように息苦しくなってしまう。。

だから、季節の変わり目の作物の世話を怠って(たとえば鉢上げ、トンネルかけ、雪囲い、マルチング、、)枯らしたり、とう立ちさせたり、、

その朽ちた様子を目の当たりにして『ごめんよ〜う、、こんな主人で、、』と反省しつつ、ちっとも次に生かせない。なんとも情けない農夫だ。。

とはいえ、やっぱり土に触れるのは楽しい。

時間さえ許すのならば、毎日毎日、何時間でも地面に張り付いていたい(専業の農家さんに笑われそうだけど)。
カフェの仕事は仕込みが大半を占める。営業時間は6時間だが、実働は12時間では下らない。。休日に農作業を!と考えていても、意外にそれ以外の野良仕事(草刈、薪用意、林の手入れ、庭の手入れ、、)や、各種の寄り合いや、出向。。

畑を横目に見ながら、後ろ髪をひかれながら、そわそわと、時期を逃してしまう。。。


近所のばあちゃん達にも「武藤さん忙しいから、畑は無理だよう」なんて言われると恥ずかしいような情けないような、、
ここに住んで畑が出来ないなんて「一人前」じゃない。
だから、出来るときに黙々と作業。

うまくいかなくたっていい。

その時間と感を、少しでも育てて学習して、少しでもものにしたい。



雪がすっかり解けて顔を出したうちの菜園。離れの菜園に今年はりんごの木を植えよう。
雪で折れてしまったブルーベリーとオリーブ。今年こそシッカリ養生して立派な株に育てて行こう。イチゴも収穫できますように。瑠璃玉アザミが美しく咲きますように。ちゃんと菜っ葉を収穫できますように。
がんばろう。
posted by 農夫見習いパパ at 23:13| Comment(2) | 菜園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月20日

蒸気圧

エスプレッソ.jpg

エスプレッソマシンは蒸気圧でコーヒーを抽出するものだが、自然の重力と浸透圧で抽出するドリップ式とは同じコーヒーを使っても随分違う風味になる。
御陵山ブレンドは焙煎度合としてはエスプレッソ向きではあるものの、ドリップでは出る筈の奥行きが今ひとつ納得できない。
加えて、修行時代に仕事で使わせていただいていた業務用のマシンはタンク容量も多く連続で作り続けても蒸気圧を一定に保てるようなハイクラスのものだったので、今所有している家庭用の延長のような小さなマシンでは良い味は出ないだろう、、と思い込んでいた。

バリスタチャンピオンシップにエントリーさせていただいた時も、当時の最高級クラスのマシンに触れる機会を得られたものの、当然使いこなせるわけも無く情けなく悔しい思いをした。(予選にかかりもせず。。)

とはいえ、そういう良い機会に長く触れられた事がいわゆる「感」を育ててくれたのは間違いない。

今所持しているマシンで、小規模の自家焙煎で表現できる最良のものに納得できるものに近づきたくて、ぽつりぽつりと試作を繰り返してきた。
そして、ようやく自分が考えるようなエスプレッソの味わいが出せるブレンドと粉の粒度(挽き目)に近づけて、いわゆる「神音のドリップコーヒー」に相対する「神音のエスプレッソ」をメニューに新しく加えた。


、、、しかしやっぱり機械は小さい。。処理能力が小さくて連続使用できず、スチーマーと併用すると数杯のオーダーで味が乱れてしまう。。
今日は土曜日でお客様が多い日だったが、カフェラッテにカプチーノ、エスプレッソ、、と連続して不安の残るサーブになってしまった。。

それでは、良い機械を導入しようじゃないか!
。。。というのが出来る経営者の姿かも知れないけれど、パンやケーキを焼くオーブンが小さいのにそれより先に(高価な)エスプレッソマシン??それより焙煎機じゃないのか!???
という「欲」がふくらみ過ぎて手に負えなくなる自分が目に見える。。

小さな焙煎機でこまめに焙煎。
作り置きなしのフレッシュなスイーツ。
丁寧に作って量産しないパン。

それらは神音の今までの「礎」でもある。

そしてなにより、エスプレッソのような濃厚なドリンクメニューは、クリーム分が高いようなリッチなケーキや薫り高いタブレットチョコなんかには良く合うものの、繊細でソフトな味わいには勝りすぎる。
そしてお恥ずかしながら自分でも混乱するのが、エスプレッソのテイスティングをするとドリップコーヒーがひたすら薄く感じてしまい、繊細な味わいを取り落としてしまう怖さが生まれる事である。

そんなわけで、せっかく登場したエスプレッソメニューだが、神音の基本を守って「隠れた味わい」にとどめ、あくまでドリップコーヒーを主役の座に、人に例えれば「長男の扱い」でねんごろに行きたいと思う。
もちろん「次男の可愛げ」エスプレッソも宜しくお願いしたい所だが。

同じコーヒーだが、ドリップとエスプレッソは似て非なるもの、また、コーヒーというものの「味わいの幅」を感じさせてくれる好対照とも感じる。

カプチーノ.jpg炭火遠景.jpg炭火.jpg

ストーブは華がある。洋風な美であるのに対して、囲炉裏の日はあくまで『和』。マキシマムに対するミニマムか。
しかし、くべる炭の形や燃え方で随分シャープでギラギラした表情をする事もある。夏の陽を直に仰ぎ見たような明るさは、ストーブに無いものがある。

posted by 農夫見習いパパ at 22:20| Comment(2) | メニュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月16日

モザイク

画像 021.jpg

もう春はすぐそこだと感じるのは、自分の希望的観測なんだろうけれど、、厳しい冬に微妙な名残惜しさも感じつつ、大活躍してくれている薪ストーブの燃料となる薪のストックが気になって、乾かしてある大ぶりなカットの木をくべやすいサイズにカットして作り足した。

きれいに積み上げるとモザイク模様みたいで、動きが感じられて美しい。ついでに木屑がたまり放題だったコンクリートの土間も掃き掃除。

画像 020.jpg

この一冬も暖かく、気持ちよくすごさせてくれてありがとう。
posted by 農夫見習いパパ at 22:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月11日

冬がさって

木々が芽吹いて、土の匂いが立ち上る。
季節で言えば「寒」くて当たり前なのだけど、この寒い山に住んで丸3年。今回の冬は暖冬だと思うし、重ね着などの防寒対策や、家の中の空気の流れ、薪ストーブの扱いが上達したおかげか、毎年冬にずうっと引きずっていたあの「風邪っぽい感じ」が殆どない。

体も強くなったのかもしれない。
時間の流れが根底から変わって、農業暦や月の暦のような根源的なリズムに少しづつ同化でき始めているのかもしれない。

子供が幼いという事から、早寝早起きが凄く重要だと実感させらているし、暗くなってからする作業に大した必要性を感じなくなった。

スローライフは決してゆっくりではない。
ただ、数ヶ月とか1年とか10年とか100年とか、
ロングスパンで物事を捉えて対応することが求められる。

目の前に現れるトラブルは自分由来か、自然由来。
だれのせいにも出来ないということがこれほど素晴らしいものだとは。

不自由は自由、不便が合理的。
そもそも答えなど無いはずなのに、何かを恐れて人は自分が今属する社会を外れまいとして、押し殺し、他人を責めて、結果としてバラバラに。
秒刻みに、1円単位で、分解してゆく。
ファーストライフから「刹那の美学」を除いたら、ただの自滅行為。

信念無き消費生活は崩壊するジェットコースターに乗るようなものであるのに対して、信念無くてでもそれとは別枠で循環を余儀なくされるのが本物のスローライフ。主導権は人(経済)ではなく、自然という事を知らない人は多い。

なんとかしてやろうと考えるから、なんとかされるのであって、
何も成さない事が、何をも成し遂げるというような「禅」のお話を最近別々のお客さんから聞いて、僕はなんだか誇らしい気がした。

自分では不自由とは思っていないものの、この土地での暮らしは今までの僕の暮らしで当たり前にしていた色んなことがぼちぼち出来なかったりする。
それでも、携帯電話がいい例で、無ければ無いで大した問題では無い。
そういう「余儀なくされる」感じ、否応ない制約が、誰のせいでもないことをはっきり明示してくれる現象が多くて、実にすがすがしい。

だから、自分の内面では不安定(に見える)政治や経済にわずらわしい思いをしないで、ただ目の前の作物や、薪木に向かい合えばいい。
そしてその向かう先は自然が決めてくれる。
posted by 農夫見習いパパ at 17:21| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月18日

やはり土なのか。

画像 015.jpg

10月に入り、ようやくストーブに火が入った。
去年のひと冬分の煙突の煤は、思った程ではなく掃除もスムースだった。
薪はよく乾いていて着火もよく、火持ちもよく、燃える火も明るい。

画像 017.jpg

なんて暖かいんだろう。

本当に設置してよかった。薪ストーブ。


今日は、激しい秋の雨。
相変わらず要領の悪い僕は、秋の心地よい好天に誘われて次々と訪れてくださるお客様の対応でてんやわんや。。接客、談笑、仕込み、接客、談笑、仕込み、仕込み、、、

自分たちが作るもので、お客様が喜んで下さり、作ったものがその日ごとにきれいに無くなって行く。
なんて幸せな事なんだろう。


、、そうして、我が心の安らぐ場所でもある菜園は手入れもままならず荒れ放題。。お客様に見える場所だし、恥ずかしい、、しかし、やっとのお休みも仕込みに明け暮れて、今日みたいにぽっかりあいた日が無かった。

神様は雨をとめてくださった。
美しい青く高い空と、沸き上がり流れる雲。
しばらく様子を見つつ、菜園の中でぬかるみの無い場所でヤーコンや人参、落花生をほりあげたり、収穫が終わった野菜や支柱を片付けて、にんにくを少し植えた。

土にまみれ、しゃがみこみ、空気の匂い、土の匂いを嗅ぎながら、
力がわきあがってくる。

このところ風邪をひきかけて、体調が優れなかったのがうそのように、体が軽く、気持ちもどんどん軽くなってゆく。

「やっぱり土にふれないとだめだ」


忙しさを言い訳に後回しにしていたのに、
日暮れとともに、次々と頭の中に訪れる畑の計画。
あそこに豆を作って、たまねぎはあそことあそこ、ハーブを増やして、林檎の木の品種は、、、

ああ、なんて愉しいのだ。
posted by 農夫見習いパパ at 22:54| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月28日

におい

コーヒーの香りが苦手という人は少なく、カレーも然り、そしてお菓子やパンの焼ける匂いもまた。

自家焙煎のコーヒー専門店であれば、コーヒーの香りそのものを邪魔するような他の匂いは排除したほうがよいという向きもあるかもしれない。
けれど、僕にとってはコーヒーとタバコのにおいの混ざったけだるい雰囲気も好きだし(僕は一切吸いません)、ケーキなどの小麦の香ばしい匂いや、甘い匂いには良くあうと思う。(店内は一応禁煙です。絶対に!じゃ無いので状況判断。今日は「タバコ吸えますか?」と聞かれたお客様が店内にいらっしゃった小さなお子様連れのお客様を見て笑顔で「外で吸ってきます」と席を立たれました♪さりげない、いい景色。)


ところが、味噌汁や煮物のお出汁や味噌、日本酒の匂い、魚のにおいが立ち込めているところではコーヒーは居心地が悪いのじゃないだろうか。。あるいは、そういう匂いに似合うコーヒーもあるのかも知れないけれど、通常、美味しい蕎麦の名店にコーヒーは無いし、日本食のお店も然り。
そこでは日本茶の奥ゆかしくやさしい香りが似つかわしく、心地よい。


だから、せっかくのストーブで日本の農家なのだけれど、店内で「和」の料理はしない。

林を抜ける匂い、
風の運ぶ湿り気を含む匂い、
土や植物や微生物がかもし出す匂いには
少し日本人の日常から離れた「異国」の匂いが意外に馴染む。


景色も人もなぜか鮮やかに見える。
生活を離れて、時間を離れて、
魔法のような時間を生き、
そしてそれはとても身近であることも知る。

そういう感性の幅を伝えられたら、、
「カフェ」はそういう可能性を秘めている。
posted by 農夫見習いパパ at 23:13| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。