2012年05月25日

めぐる

新緑窓.jpg

一日では分からないこと
見えないこと

一年では分からないこと
見えないこと

一生かかっても分からないこと
見えないこと

季節が変わって、自分自身も更新されてゆく。
ブログももっと更新しなさいとのお声も聞こえますが、、、
(すみません。。。がんばります!)

このうつくしく過酷な風景をなるべく残してゆきたい。

同じ窓。3ヶ月程前。
つらら窓.jpg
posted by 農夫見習いパパ at 14:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月30日

うごく

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季節がゆっくりと、しかし確実にかわってゆく。
毎年の事ながら、その一つ一つの兆しを何度も感じ取られる事は喜びである。

それに対処する心の準備と、道具や装備などの具体的な準備、自然に対して前向きな気持ちがあれば、
それは苦難や重荷を表す景色ではなく、むしろ感動を呼び起こすような景色になる。

この一瞬は永遠ではない。

この一日の長さが10回も繰り返したら、もう一巡りを待つまで出会う事が出来ない。
この大変さも2ヶ月後には薄れた記憶になり、また新しい喜びと大変さに対面しているのだろう。

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軒先につらなるつららがきらきらと輝いて、毎日の単調な除雪でも目を楽しませてくれる。

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パワフルな除雪機に慣れると、今までせっせとやっていた作業に戻れなくなりそう、、
薪割り機然り。

まだ暫くは寒いだろう。
しかしこの美しさももうしばらくで春のそれと変わってゆく。
posted by 農夫見習いパパ at 21:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月24日

この冬

神音入り口看板.jpg

今のところ雪が降っても合間の晴れと、雨が解かしてくれて、去年みたいな大変な事にはなっていない。

同じ町内の大工さん「山口工務店」さんには、いつもお世話になっている。
釘を使わない「さしもの」、伝統工法から現代工法まで、腕が確かで、センスも抜群の寡黙な職人さん。
去年と同等の雪を想定すると、屋根雪の重みで古い家の軒先がいつ折れるか分からない不安があった。
実際裏の林側は瓦が落ちたその下の素地がだいぶ痛んでいた。。

そこで、大屋根の雪が集中する家の全面にも「板式の雪囲い」を設置してもらった。
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なんだか、店らしいたたずまいになったし、家の中にも程よく光が入って暗くならない。(夏は程よい日陰を作ってくれそう)

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薪だって夏からせっせと段取りしてたっぷり。
これは、去年の春に2件隣の空き家に移住してきたM一家http://ameblo.jp/surfarmer/にも「神音」と兄弟のストーブが入った為、一洋さんと一緒に薪集めが出来るようになってものすごくはかどるようになった事や、去年からの薪割り機の導入によるものが大きい。

ニュースでは朝からずっと東京の数センチの積雪のニュースばかり。
そりゃ大変だろうけど、震災時の帰宅困難や電気の事、、いろいろ考えても本当に都会は脆弱だなと思った次第。

飯桐.jpg

色を無くした向山の冬景色にいつも目を奪う立派な木にたわわに実る赤い実。
植木屋さんのお客様がしらべて下さったその木の名前は「飯桐」。
能登にも分布するらしいが、少なく珍しいらしい。
山を見渡すとあちこちにぽつぽつと生えている。
山を大事に、山とともに暮らしてきた町の人々。そして自然が伝えてくれる様々なサイン。
真っ赤な実が、植物の生長の時間とそこへ生きてきた人々の時間を刻んでいるようで、なんだか尊く思えてくる。

雪にばかり焦っていままでゆっくり眺める事が出来ていなかったのかもしれない。
ここへ住んで丸5年、あっという間だけど、ものすごい密度で毎日が過ぎてゆく。
多くのお客様がいつも大切な人を伴って訪れてくださる。
その尊い時間の為に、また薪をくべよう。
ここで生きられる事に本当に感謝。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
現在の神音カフェ近辺の状況です。

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けっこう解けてアスファルトが乾いています。ついさっきの状況です。
まだ暫く油断はできません。ご来店のご予定の方はくれぐれもお気をつけてお越し下さい。

神音 店主
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜も
posted by 農夫見習いパパ at 15:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月17日

萌えいろと百足

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ゆっくりした速度で暖かさが近づき、
野の花たちも急かされる事無く、正しい大きさで花を開き、
他の草達に競い負ける事無く堂々と咲き、
余り「寒春だ不作だ」とネガティブな事を言うのはスマートではないと思わされる。
とてもよい春だ。

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すっかり目にしみる緑の世界につつまれたこの山郷、
ゆっくりではあるが裏年の筍もぼちぼち生え、木陰のうわばみ草や蕗の緑はまぶしい。

新緑は心に染み入るやさしく強い緑だが、
ほんとうは『山笑う』萌芽の灰色かかった中に無数の色が潜む、
しばらく前の景色の方が好きだ。

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それぞれのいきものたちが、
冬を乗り越え、活動の色を取り戻してゆく。
その『はじまりのいろ』

子供達が大きな百足を岩陰に見つけた。
これから人目につくことも多く、場合によっては咬まれるかもしれない。
大きく育ち、何の罪も無いのだが、小さな子供達の「もしも」を思うと思わず踏みつぶした。
こうした殺生は此処へ来て確かに増えた。

文字通り、心が痛むかといえばちょっと違う。
『なれ』てしまう自分への恐ろしさも半分、
自然に寄り添い生きる人の『性』として、無感情に命を奪う事もまた必要な営みを思う。これでよいのだという気持ち半分。

手当たり次第、根こそぎ、とか憎しみを込めて、、というのとは違う、淡々とした何か。
鶏を飼い絞める事と何か共通する。

ようやく冬をこえて、只いのちをつなごうと生きる其の姿はいつくしむべきものであり、
其の姿は昔ほどおぞましくは感じず、同じ山に生きる同胞のような共感すら覚える。
しかし、出会ってしまったものは仕方が無い。。
其の姿は堂々と、艶があり、美しかった。
南無。
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2011年04月28日

連続体

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冬に色を奪われて、色相が単調になった土の上に、明るく暖かいスポットが広がる。
それはまるで、乾ききった夏のコンクリートの上に落ち始めた大粒の夕立の雨粒のように、
みずみずしい潤いを色に変えて、匂いが拡散してゆく合図のようなフキノトウ。

そして、あれほどあった雪は夢のように解けて無くなり、
その重みに押しつぶされた地面が動き出す。

水仙は希望の象徴。
梅や桜やこぶし、れんぎょうに、芍薬の新芽たち、木々の芽たち、、
そして虫たちの蠢き。

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ロマネスコというカリフラワーの一種。
雪の重みで茎が捻じ曲がり、葉が痛んでいたのに、その中にはかくも不思議なフラクタル。
今日の行いは、一月の行いと似て、一生の行いとまた似る。
自己相似の繰り返しは、外見上何のつながりも見出せないものであっても、結局は巨視的には過去にも起こり、未来にも起こること。
とどのつまりはどこへも行かず、何にもならない。

その振り幅が世界の豊かさであり、魅力である。
それは道教における対極図の在り様とよく似ている。
仏教の曼荼羅や、ケルトの文様。そして南米の織物。

しかし、それを大きく逸脱しようとするのは原子力の設備。
ちいさな存在である人間が、緻密に、時間をかけて積み上げたものを、一瞬で破壊する。
そして、時間をかけて押さえつける。

津波は違う。
海に家や畑をさらわれた人々も、代々住み継いだ其の場所と海を呪いはしない。
海からは命をもらい、生かされてきたから。
地すべり地帯や土砂災害にあう土地柄の人々も、長い長いスパンで、その自然と付きあってきた。
いまさら呪う事は出来ないし、そこに住まう事とそこから離れる事の意味も十分に判っていた筈。
その破壊の後には、また人間達がいとなみを繋げる場所が戻ってくる。

気候や天災によって仕事や、農業が出来なくなるのは「今までどおり」出来ないだけで、
消して「全く不可能になる」訳じゃない。
週末農業で、保証されすぎたお米作りが出来ないだけで、人間が生きてゆくに必要な食物はいくらでも作られる。
気持ちをくじき、折り曲げ、弱くさせたのは何か?

「甘え」のような気がする。。
えらそうなこともいえないか。。。

大都市に住まい、また、そこを離れる意味を正しく理解している人はいるだろうか?
はじめからそこに住んでいた人、「上京」した人。
仕事の為。生活の為。心の為。

人間の大きさを越えたものは、自然だけであるべき。
それは、経済であっても、エネルギーであっても、「便利」という「幻覚」から醒めて欲しい。
posted by 農夫見習いパパ at 16:23| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月28日

幻覚

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今はもう屋根から落ちた雪が作った山に遮られて見えないけれど、
厨房からの林の眺めは格別だ。

カフェの空間に『外国』を感じて下さるお客様は多いけれど、
自分にとっては最も日常を飛ばしてくれるのがこの窓からの四季の移ろいの様子だ。

木立の間を野生の動物が横切るのを夢想したり、
一面の白い雪が純白の砂浜と打ち寄せる波を思わせ、
潮騒と潮風の匂いまで感じられる。
まるでこの家とその周りの限られた空間が時空をこえて移動してゆくかの如き、
内面の、受け手の旅。

一つの点が全てであり、全ての点は一つである。
そんな、陰陽紋を彷彿とさせる在り様。

どれ程雪に埋もれようとも、この場所が好きで仕方ないと思えるのは、
そこここに生える木々を薪として、
体も心もいたわってくれるストーブの存在は大きい。

火があれば生きて行ける。

ストーブが体に伝える暖かさは、
陽だまりの、まるで太陽そのものの暖かさ。
肌をじりじりと温めるその感じと、真夏の浜辺のそれはそれ程遠いだろうか?
それは幻覚かもしれない。
posted by 農夫見習いパパ at 17:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月03日

雪から家をまもる

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林に面した勝手口、落ち葉から頭を覗かせるなかなかナイスな存在感のキノコ。
なんという美しい色だろう。ふくよかな暖色系のグレーに、そこはかとなく優美な紫。ぽってりしていて、美味しそうに見えなくもないが、調べてまで食べようとは思わない。
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しかしヨーロッパの魔女が薬の材料にに使いそうないかにも危険な魅力。

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さて、この間からの晴れ間を狙って雪囲いした。
今回はお父さんの力を借りず、全部一人で。
一人だと、効率もあがらず、時間もかかって大変だったけど、どうにかしっかりと組み上げられたと思う。
あとは、お店の玄関に毎年出来る屋根雪の山を防ぐ構造体を何か工夫したい。。
、まあ。。当然雪かきは人力ですが。

そして、秋の深まりと冬の気配を感じながら頂くコーヒーのかぐわしく、美味しい事。。

posted by 農夫見習いパパ at 13:27| Comment(7) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月06日

ひかりと記憶

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その日の空模様、気温、大気の状態、、そして受け取る側(それを見る側)の心境、コンディション。。

一つとして同じひかりは見られない筈なのに、
記憶の奥底にどんどん染み込んで、ある特定の感情を引き出そうとする景色に出会うことがある。

それは、なんの変哲も無い日常の一瞬。

タバコの煙が充満し、音楽が大きなボリュームでかかり、ざわざわと話し声が暖かく響くただの曇りの日かもしれないし、特別な人と眺めたどんよりした夜の海かもしれないし、どこかメランコリックな夕焼け色の静かな室内かもしれない。

それを特に記述したり、人に伝えるのは難しいけれど、明らかに心が動き出している。
それはもしかしたら夕焼けを見て、寂しそうにたたずむ犬も感じているかもしれないし、
ただぐうたらと寝ているように見える猫が壁に映るやさしい影に目を潜めているのかもしれない。

ただ、人間はそれを陳腐な言葉でスナップして、
ありきたりの一枚の平面に処理してしまう。

こういう神々の多次元的な仕業を感じさせるのは自然が一番得意とするところ。

あとは受けての人間次第。
posted by 農夫見習いパパ at 19:47| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月28日

yuragi

煙突の掃除。途中で少し離れた隙にすずめが紛れ込んだ。
気が付いたのは次の日。
まだまだ火を入れるには暖かい日だったので、焼きすずめにはならなかったけれど、
ストーブが鉄の鳥篭になっているのをお客さんが見つけて下さった。
窓を開けると一直線に天窓に。外へ帰っていった。

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さて、やっぱり薪の炎はいい。

薪を用意することの苦労など一瞬で吹き飛ぶこの魅力。
もはや生活と切り離せないこの暖房は、
娯楽的、趣味的な領域をとうに超え、店の、家の心臓として躍動する。

エネルギーとはこういうものだ。
石油や原子力のエネルギーはエンプティ。
インスタントフーズや、化学の力無くして成り立たない食もまたエンプティ。

そこへ至るまで、それが出来るまでに膨大なエネルギーを使っているのに、
それが見えないばっかりに、ただ浪費し欲望を加速増大させる。
害毒ばかりが見えないところに蓄積してゆく。

見えない(感じられない)事はよろしくない。

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ここで生かされる為に、木を刻み、割る。
それはそれは清清しい。

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どこかの国の炭鉱夫ではない。
posted by 農夫見習いパパ at 12:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月24日

月光

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雨が止み、澄み切った空に冴えた光。
山の稜線と流れる雲を映し出し、金星を従えた夜の主。

真夏の天の川の美しさや、月にかかる輪型の虹の美しさもさることながら、
さすがはいにしえより日本人に愛された中秋の名月。月が主役の日。  

神の仕業を感じさせずにはいられない、
呼吸が自然と浅くなるような、存在感。


急な秋が訪れに戸惑うも、今年もちゃんと収穫が得られた事を感謝。
その空気の匂いが、
台風が運んで来た香りが、
冬への支度を促す。
posted by 農夫見習いパパ at 23:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月07日

叙情性

店内のBGMはi-podでシャッフル。
常時7-800曲くらい入れてあるけれど、季節毎に少しづつ入れ替えたりしてる。
ジャンルは縦横無尽だけれども、それなりのテーマはある。

ひたすら主観的な選曲であるが、それは僕なりの「リリシズム溢れる」背景音楽。
音楽レヴューなどで、ジョンコルトレーンのjazzを『リリシズム溢れる』と評しているのを、感受性が豊かな青春時代に信じ込んでしまって(刷り込まれてしまって)いるので、僕にとっては、どんなジャンルで、どんなスタイルで、どんな編成の音楽だろうとも、その『叙情性』こそが最大の選曲ポイントであり、何千、何万回と聞き続ける中でその奥行きの深さに、其の度に何度も何度も酔いしれられるような、、
そんな音楽に惹かれてしようが無い。。

『叙情性』の定義はいろいろとあるだろうが、いわゆる「ロマンチック」で「哀愁漂う」「きわめて私的でありながら、外部への発信、表現を洗練した詩的な」もの。だろうか。内省的でありながら、広く多くの人の共感を呼ばずにはいられない普遍性。
それは古きよき『ダンディズム』『淑女の気品』にも通づるような、極限にて着飾らない芯からくる美しさ。信念と美学を備えつつ、世を憂いつつ、べたべたにならないドライな表現、、
憧れるなぁ、、、
そういえば、最近テレビのロードショーで宮崎駿監督の「紅の豚」が放映されてたけど、たまたま地中海繫がりのせいか、「ニューシネマパラダイス」を思い出すような『リリシズム』が描かれてる気がした。

世の中理屈では無いのだよ。

だが、信念無き幸せは虚しい。と。


http://itunes.apple.com/jp/album/african-suite/id310156065

最近はサッカーワールドカップ関連で、南アフリカのjazzピアニスト「アブドゥーラ イブラヒム(ダラーブランド)」がテレビでも紹介されていたが、この人のピアノに感じるのがまさに『リリシズム』
アパルトヘイトの黒い闇と、jazzというきわめて自由な音楽の狭間で、一つの音に込められる奥行きの深さはこの人ならではだと思う。
posted by 農夫見習いパパ at 23:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月16日

モザイク

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もう春はすぐそこだと感じるのは、自分の希望的観測なんだろうけれど、、厳しい冬に微妙な名残惜しさも感じつつ、大活躍してくれている薪ストーブの燃料となる薪のストックが気になって、乾かしてある大ぶりなカットの木をくべやすいサイズにカットして作り足した。

きれいに積み上げるとモザイク模様みたいで、動きが感じられて美しい。ついでに木屑がたまり放題だったコンクリートの土間も掃き掃除。

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この一冬も暖かく、気持ちよくすごさせてくれてありがとう。
posted by 農夫見習いパパ at 22:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月11日

冬がさって

木々が芽吹いて、土の匂いが立ち上る。
季節で言えば「寒」くて当たり前なのだけど、この寒い山に住んで丸3年。今回の冬は暖冬だと思うし、重ね着などの防寒対策や、家の中の空気の流れ、薪ストーブの扱いが上達したおかげか、毎年冬にずうっと引きずっていたあの「風邪っぽい感じ」が殆どない。

体も強くなったのかもしれない。
時間の流れが根底から変わって、農業暦や月の暦のような根源的なリズムに少しづつ同化でき始めているのかもしれない。

子供が幼いという事から、早寝早起きが凄く重要だと実感させらているし、暗くなってからする作業に大した必要性を感じなくなった。

スローライフは決してゆっくりではない。
ただ、数ヶ月とか1年とか10年とか100年とか、
ロングスパンで物事を捉えて対応することが求められる。

目の前に現れるトラブルは自分由来か、自然由来。
だれのせいにも出来ないということがこれほど素晴らしいものだとは。

不自由は自由、不便が合理的。
そもそも答えなど無いはずなのに、何かを恐れて人は自分が今属する社会を外れまいとして、押し殺し、他人を責めて、結果としてバラバラに。
秒刻みに、1円単位で、分解してゆく。
ファーストライフから「刹那の美学」を除いたら、ただの自滅行為。

信念無き消費生活は崩壊するジェットコースターに乗るようなものであるのに対して、信念無くてでもそれとは別枠で循環を余儀なくされるのが本物のスローライフ。主導権は人(経済)ではなく、自然という事を知らない人は多い。

なんとかしてやろうと考えるから、なんとかされるのであって、
何も成さない事が、何をも成し遂げるというような「禅」のお話を最近別々のお客さんから聞いて、僕はなんだか誇らしい気がした。

自分では不自由とは思っていないものの、この土地での暮らしは今までの僕の暮らしで当たり前にしていた色んなことがぼちぼち出来なかったりする。
それでも、携帯電話がいい例で、無ければ無いで大した問題では無い。
そういう「余儀なくされる」感じ、否応ない制約が、誰のせいでもないことをはっきり明示してくれる現象が多くて、実にすがすがしい。

だから、自分の内面では不安定(に見える)政治や経済にわずらわしい思いをしないで、ただ目の前の作物や、薪木に向かい合えばいい。
そしてその向かう先は自然が決めてくれる。
posted by 農夫見習いパパ at 17:21| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月18日

やはり土なのか。

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10月に入り、ようやくストーブに火が入った。
去年のひと冬分の煙突の煤は、思った程ではなく掃除もスムースだった。
薪はよく乾いていて着火もよく、火持ちもよく、燃える火も明るい。

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なんて暖かいんだろう。

本当に設置してよかった。薪ストーブ。


今日は、激しい秋の雨。
相変わらず要領の悪い僕は、秋の心地よい好天に誘われて次々と訪れてくださるお客様の対応でてんやわんや。。接客、談笑、仕込み、接客、談笑、仕込み、仕込み、、、

自分たちが作るもので、お客様が喜んで下さり、作ったものがその日ごとにきれいに無くなって行く。
なんて幸せな事なんだろう。


、、そうして、我が心の安らぐ場所でもある菜園は手入れもままならず荒れ放題。。お客様に見える場所だし、恥ずかしい、、しかし、やっとのお休みも仕込みに明け暮れて、今日みたいにぽっかりあいた日が無かった。

神様は雨をとめてくださった。
美しい青く高い空と、沸き上がり流れる雲。
しばらく様子を見つつ、菜園の中でぬかるみの無い場所でヤーコンや人参、落花生をほりあげたり、収穫が終わった野菜や支柱を片付けて、にんにくを少し植えた。

土にまみれ、しゃがみこみ、空気の匂い、土の匂いを嗅ぎながら、
力がわきあがってくる。

このところ風邪をひきかけて、体調が優れなかったのがうそのように、体が軽く、気持ちもどんどん軽くなってゆく。

「やっぱり土にふれないとだめだ」


忙しさを言い訳に後回しにしていたのに、
日暮れとともに、次々と頭の中に訪れる畑の計画。
あそこに豆を作って、たまねぎはあそことあそこ、ハーブを増やして、林檎の木の品種は、、、

ああ、なんて愉しいのだ。
posted by 農夫見習いパパ at 22:54| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月28日

におい

コーヒーの香りが苦手という人は少なく、カレーも然り、そしてお菓子やパンの焼ける匂いもまた。

自家焙煎のコーヒー専門店であれば、コーヒーの香りそのものを邪魔するような他の匂いは排除したほうがよいという向きもあるかもしれない。
けれど、僕にとってはコーヒーとタバコのにおいの混ざったけだるい雰囲気も好きだし(僕は一切吸いません)、ケーキなどの小麦の香ばしい匂いや、甘い匂いには良くあうと思う。(店内は一応禁煙です。絶対に!じゃ無いので状況判断。今日は「タバコ吸えますか?」と聞かれたお客様が店内にいらっしゃった小さなお子様連れのお客様を見て笑顔で「外で吸ってきます」と席を立たれました♪さりげない、いい景色。)


ところが、味噌汁や煮物のお出汁や味噌、日本酒の匂い、魚のにおいが立ち込めているところではコーヒーは居心地が悪いのじゃないだろうか。。あるいは、そういう匂いに似合うコーヒーもあるのかも知れないけれど、通常、美味しい蕎麦の名店にコーヒーは無いし、日本食のお店も然り。
そこでは日本茶の奥ゆかしくやさしい香りが似つかわしく、心地よい。


だから、せっかくのストーブで日本の農家なのだけれど、店内で「和」の料理はしない。

林を抜ける匂い、
風の運ぶ湿り気を含む匂い、
土や植物や微生物がかもし出す匂いには
少し日本人の日常から離れた「異国」の匂いが意外に馴染む。


景色も人もなぜか鮮やかに見える。
生活を離れて、時間を離れて、
魔法のような時間を生き、
そしてそれはとても身近であることも知る。

そういう感性の幅を伝えられたら、、
「カフェ」はそういう可能性を秘めている。
posted by 農夫見習いパパ at 23:13| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

ヴェルヴェティーン

何十年もかけて年輪を重ねた木が、鉄の刃で切り倒され、割られ、燃やされる。そのいのちの蓄積からすればほんの一瞬ともいえる僅かな時間に熱エネルギーと光と灰に変わってゆく。

薪ストーブの炎はうつくしい。

炉の温度が上がり酸素供給を絞った時、ガス化した木の成分が完全燃焼してゆく、ゆらめき立ちのぼる炎はまるで風に揺らめく天界のヴェルヴェット。薪から少し浮いた場所でオーロラのように漂い宙を舐める。

大きな窓のストーブにして本当に良かった。

そしてなにより暖かい。。
冷え込む日でもその前で数分佇めば体の芯が温まり、移動しても暖かさがついてくる。やわらかく力強い暖かさだ。

時間はかかるが広く天井が高い家の中心を確実に暖めている。

火の神か、火の精か、、
鉄とレンガとガラスに閉じ込められ、長い長い煙突に吸い上げられ、
神音の家に休む人間を暖めるために幽閉されている。
いや、、本来足元の地球の核にも精神の奥底にも、そして宙のかなたにも燃えさかる根源の炎を覗く窓なのかもしれない。



薪は見渡す限りこの山のあちこちを人の暮らしに沿った「里山」に還す作業から無限に生まれてくる。
雑木林と薪炭林の植生になるまでに何十年か、そしてその先も。
自然と寄り添う形を模索するにはなんとも好ましく、うつくしい道具。

昔は暖炉のようにして、囲炉裏や竈、風呂に薪をくべていた。
薪が燃える匂いは虫や害獣を離し、その煤は家の木材を強化する。

火をコントロールすることで猿から人へと変わっていったというが、
現代の暮らしから火は消えてしまった。

石油の炎と原子の力は人を賢くしたのだろうか?




あまりの心地よさに意識が遠のく程、夜更けのストーブの火の番は愉しい。
温まって、今年の仕事に切りをつけて、ほっくりと床につくと、永い夢を見た。。

女神を崇め、つき従う小さき卑しい自分が、やがて根源なる海に彼女を見送らねばならぬという。。
小さく卑しい自分の精神はその事実に耐えられず混乱する。
しかし、大きな意思に突き動かされ、その真意もわからぬまま、納得など到底出来ぬまま、別れる。

仕方がないのだ。。
その喪失感。
マゾヒスティックかもしれないけれど、
その感じが僕の心を潤わせ、根底から動かし続けている
posted by 農夫見習いパパ at 23:35| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月30日

たべものと食品

県の食品安全対策室から、保健所を通じて「食品製造業」関係者向けの講習会が開かれ、出席してきた(臨時休業となり、ご迷惑をおかけいたしました、、)。

神音カフェでも「菓子製造業」の看板があるため受講必須なわけだが、話を聞きながら、食品を取り扱うものの基本的な衛生への取り組み(飲食店営業)とは違う次元の時代の闇を感じさせるものがあった。

昨今の食品汚染や表示偽装、それによって引き起こされた信じられない様々な健康被害。
食品は人のいのちにダイレクトに繋がる事なんだけれど、製造や流通、経営的視点からすると食『品』なんだなあ、『モノ』なんだなぁ、、
「添加物の一括表示」「一次加工品のキャリーオーバー」「製造者の良心」。。?

確かに、製造した場所と販売される場所が別個の場合、的確で正確な表示と説明は不可欠だと思うが、こうして講習会を開いて危機回避を図る事自体、『食』を製造する場面に精神性が欠落している顕れなんだとうなぁ。。と思った。

何かを「添加」しなければ安全を保障できない。
何かを「あいまい」にしなければ商品価値が下がる。
そしてそれらの『安全対策』はあまりにも機械的に、役所的に施行される。

食品は基本的に『生もの』。時間を置けば痛むに決まっているし、味だって落ちる。元来持ちがいいものもあるけれど、ほとんどの場合それは当たり前のこと。
大量に生産し原料コストや流通コストを抑えて利益を確保する。それを「お客様」へフィードバック??危険に晒した挙句の奪い合いの間違いでは??



しかし、結局のところそういう状況を作り出した半分の責任は消費者にある。疑わず買う、だまされたと騒ぐ。それはあまりにも無知で愚かな態度ではないか?

食についてどう考えるか?食とどう付き合ってゆくのか?その姿勢を一人一人が問われているのに、ライフスタイルもろとも画一的に操作されて振り回される。

資本主義経済の下、「消費」から知恵が奪われ「生産」出来ない国になった日本。連綿と繋がる人の営みを預かり、活動できる人々は自助努力をせず何を救うつもりなのだろうか?
少なくとも、自分達の老後、孫の世代のために何かを残してあげられる力は欠落してしまっている気がする。


菅池町。
ここに「今」生きる人々の生涯の生産活動は膨大だ。しかし老年の後期を向かえつつある今、それらはどこへ行ってしまったのだろう?
資産としての価値はほとんど無い。
誰がそれを言わしむるのか?

「農」の強さ「農家」の強さは、「食」を自らの「いのち」を自らが育み循環させる「力」を持っているということ。この知恵を引き継がせず、離れさせて失わせたのは政治なのだろうか?



『不買』と『生産』。それが僕の選択した道。
ひとつ品が売れないくらいで経済は変わらない。けれど一票。
ストレスの下、自分をすり減らせる生活で費やしたエネルギーを農作業の、農村生活のエネルギーに置き換えたらどれだけ豊かだろう?
そう考えて今、薪を割っている。
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2008年10月21日

快適とは

okinawamurasaki.jpg

エアコンとモードファッション、ハイテク新素材の低価格アパレル。
カッコ良く快適に『纏い』室内空間を自然の気温に抗って操作する。

とはいえ、石油由来の製品に長期的な見通しは望めなさそうだし、天然素材にしても経済の大きな流れのうちにほんとうに身近なものは失われてきている。。



たとえば、化学調味料。
旨みを感じ取るレセプターへ効率的に反応する「グルタミン酸」等のアミノ酸類。最近は『化学調味料無添加』とうたっていても『たんぱく加水分解物』や『○○エキス』なんかで味の複雑系を表現しようと工業製品のように食品が製造されている。それが当たり前になっている。

『食』への関心が高い時代と言われるが、人間の生態としての根源に関わる割りに経済活動と消費に大きく左右され「選べない」のが現実。逆説的だが強い意志をもって「選ばない」消費者の責任でもある。



たとえば高気密住宅。
これもハイテクの粋を行く低価格、高品質(といわれる)新建材で密閉された空間。オール電化で空調を効率化し、バリアフリーで「人にやさしい」空間を創造。30年で建て替え、住み替える現代的な住宅消費のスタイルに従い当たり前のようになっている。

結果。大手がパッケージ化した建材・工法以外の「町の職人(大工・戸大工・左官・瓦屋。。)」が排除され伝統的な技術や知恵が消えてゆく。これを文化破壊と言わずしてなんという。



『快適だから』『おいしいから』『心地いいから』

果たしてその感覚は本物なのだろうか?
街中や住宅地に住む人々から『不自由』とひとくくりにされる田舎、山里の暮らしに入って感じるのは、生き物として人間としての不安定で揺らぎのある日常に対して、自然界には無い化学的に生成された食品を日常的に摂ることや、森や林にあふれるエネルギー溢れる空気をわざわざシャットダウンするのは無意味であるということ。
プライベートと人間的な暖かい交流やつながりの喪失、経済成長と車社会と空気汚染。コンビニと光害・生活時間帯の崩壊。
それらを加速させるのはいったい何なのか?
感覚を鈍らせるものは何なのか?



こんなことを書くとあたかも里山の文化伝統に深く傾倒し、ストイックに生きているような印象を与えてしまうかもしれないが、そんなことは無い。
むしろ、コンビにでもファミレスでも普通に利用するし、冷凍食品もスナック菓子も食べる。多少の罪悪感を感じつつだが、それらで真に「おいしい」とか「快適」であると感じたことは無い。
仕方ないから、もしくは考えたくないなどの逃避行動に近いものがある。
世の中皆が逃避してごまかしあっているとすれば、これはとても悲しく切ないが、この家に住んで、この町に生きて、自然と寄り添っていると『家』のもつちから『自然』与えてくれるバランス感をしっかりと享受出来、壊れそうな自分を支えてくれているような気がする。


何よりこの場所での暮らしは「快適」そのものであるからして。


写真は今年初めて育てたサツマイモ「沖縄紫」本数は少ないもののいい芋がちゃんと出来た。けど、何かの間違いか花をつけたので珍しくて写真を撮った。サツマイモ農家の方に「確か花をつけると芋自体の味が悪くなる可能性が。。」と言われたものの、その方でさえも見たことが無いという「花」
異常気象を騒ぐのは大抵街の人。昔から時を間違える動植物はあって、村の人は純粋に見て楽しむ。
posted by 農夫見習いパパ at 10:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月26日

結い返し

ボランティアという言葉はどこか偽善的で押し付けがましいニュアンスがあるような気がする。無償で労力を提供する、無償で知恵を絞る、無償で時間を(経済を)提供する。。

そもそも、自立した人間が社会的に地域に助けられ、その「恩」を返すような形でなにか私財や労力を提供するのには相互関係を深めるものとして理解しやすいが、学生やモラトリアム的家庭人が、本来その人のなすべきつとめが解らず、また、時間をもてあましたり、精神衛生上やファッションで自分の今かかわっている現実とほとんど接点の無いような場所での「ボランティア」を語るケースが多いためそういうイメージが生まれたのか。。


過疎高齢化が進む山間の町に住み続ける人たちは、一人一人が「家」を守る柱としてしっかり立っている。人が足りないのだ。
でもだからこそ、責任もリアルだし、経営感覚にも優れている。
何代も続く「お家」のフローを考えて今後の流れをもつかもうとするその『心』はとても強いものであり、その礎となるのは「結い」という日本の相互扶助の精神の結晶を現実に体験してきたことだろう。

「結い」には必ず「結い返し」が必要である。
相互的であるからこそ、本当の痛みも喜びも分かち合い絆が生まれる。「損得抜きに」は、些細な損や得にこだわらず、すすんで繋がろうという意味だと思う。共有の財産があり、共有の想いがある。

しかし残念ながら、この「結い」は日本全国で同じくしてもっと大きな社会の変化の力には敵わず、、結いは戻されることなく散らばってしまっている。。

それでもまだ戻すことは出来る。戻すことにはとても深い意義がある。

背景を知らず、もともとの結いも無く、深くかかわろうともしない軽い「ボランティア精神」は長期的には意味が無いのではないだろうか?
ひとの暮らしは繋がってゆく。子供たちは地域の共有財産であり、地域はそれを迷わず大切にし、表現する。
どこの馬の骨ともつかぬ僕のような人間でも同じ想いを知り、分かちあうことでとことん大切にしてもらっている。
申し訳ないくらい、、

「申し訳ない」だから、僕は出来る範囲で「返し」続ける。
続けられるよう無理はしない。
それを許し抱擁するほどのやさしさと豊かさを備えているのがこの「菅池町」

この菅池町に新たな住人が増えそうだ。
休耕地を活用し大豆を作付けし、その大豆で豆腐を作るという職人が移住を希望しておられる。僕と同じ世代で「結い」を知ろうとし、実践しようとしておられる。

本当に楽しみで、是非実現してほしい。
そうなればまことに心強いし、町がさらに明るくなる。


、、僕がこの町に引っ越して1年と少し、その間にもう4回もお葬式があった。僅か27世帯の町。「限界集落ー数年で無人化する恐れがある過疎高齢集落」。ここに住む僕にとっては秒読みの危機感とせなかあわせに、絶対的な安心感のような、暖かく力づよい感覚に守られて未来を確信する気持ちがある。
posted by 農夫見習いパパ at 00:11| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月15日

やさしさ

雪が降っている。一晩で30cm積もり、早朝4時には市の除雪車が家の前をさらえていった。おかげで朝子供をスクールバス待合所のところまで送るのに往生しなくて済んだ。有り難い。。
ただし、家の前の広大なスペースと屋根雪が落ちた山をどけて車を発掘する仕事は必須。除雪車が玄関先に寄せていった重い雪の山のバリケードも取り除かなくてはいけない。ほんと、この程度の雪で済んでよかった。(まだどうなるかわからないけれど、、)日中の気温の上昇と日光でかなり溶けてくれたのと、せっせとからだを動かしたおかげで明日同じだけ積もっても困らないような気がするけれどどうだろう?

さて実は車を畑に落としてしまった。。
1週間程前、早朝に降ったみぞれが家の前から下る急な坂道をつるつるのスケートリンクのように仕上げてくれていた。
凍結する朝はその道をとおってはイケナイ。
日陰で急勾配、湿気があって、ガードレールが無い。
重〜い4WDのステップワゴンは氷上滑る鉄の箱と化して、ハンドルもエンジンブレーキも受け付けず滑らかに続く堤防のような法面をゆっくりと転がり落ちた。。一回転半。冬期で何も植えていないふかふかの畑に助けられ怪我は全くなし。
子供達はチャイルドシートごとぶらぶらぶら下がっていた。
30分でジャフが来てユニックで上手に上げてくれた。スバラシイプロの仕事。重機使い。自走出来たのでそのまま整備工場へ。。。

その数日後、今度は軽自動車が雪の下にあったぬかるみに沈んで動けなくなった。事故ではないけれど、4〜500キロもある鉄の塊は足掻けば足掻く程泥に沈んでゆく。。
居合わせた常連様にまで助けていただくも、微動だにせず。。
『大人の男数人で持ち上げて脱出させるしかないか??』と話しているとお母さん『ああ、今用事で居ないけどうちのお父さんなら一人で上げてくれるから、明日まで待って』と。
この状態の車を一人で??どうやるのかと不思議に思いながらも、お母さんがあまりに自信たっぷり、信頼たっぷりに言うので間違い無いだろう。
その日の夕刻遅くお父さんから電話『朝は忙しいから後で行くから』
夜9時半。しんしんと細かい雪が降る中、でっかいかけや(木槌)とでっかい木杭、ロープと引き上げる道具(名前を知らない)を携えてお父さん登場。

てきぱきと畦に杭を打ちワイヤーとその巻き上げ機とロープをセットして車の後輪の車軸に結わえるとギコギコ巻き上げ機を動かすと何と!ジリジリと動く!!!
、、が車の重さに耐えられず相当深く打ち込まれた杭も抜けてしまった、、

めげる事無く、今度は20m離れた大きな木にロープを継いでいって結わえて再チャレンジ。
お父さんが巻き上げ機を動かしてゆくと嘘みたいに素直に車が上がってゆく、、、
小1時間。じっくり落ち着いてダメでも対策をすぐに立ててテキパキと動くその姿はほんとうに頼もしい。160センチでやせ形のほんとうに小柄な70歳のお父さんはほんとうに大きなお父さんだ。。

そしてとうとう一人で上げてしまった。
杭を打ち込む時に少し手伝ったものの、重い木槌を上手く扱えず要領を得ない、、ただ懐中電灯をもってつっ立てる木偶の棒のような僕が居た。

聞けば、軽トラを落としたり、トラクターを落としたりした経験から一人で対処できる術を身につけたという。『人に頼ればいいんだろうけどなぁ、、』と言いながらも、何ごとにもじっくり立ち向かうその姿にはほんとうに学ぶ所が大きい。


そして昨日。事故以来町内の細い道も全て徐行でそろそろと運転していたにも関わらず、急カーブで道幅の狭い場所でタイヤを取られてガードレールに擦ってしまった、、、、
ステップワゴンは修理より買い替えた方が安くなるというくらいの大破、軽自動車の凹みも2カ所。お金がいくらあっても足りない。。。


『何ごとも経験』『授業料だと思って』なんて言われつつも、どんよりと凹むここ最近。怪我が無い事はほんとうに幸い。滑った時の対処法を色々な人が教えてくれる。さっきもそろそろ走りながら復習して現場練習。

もともと車の運転は苦手。事故の経験もあるけれど、この町内での自然相手の事故はどうも後口が悪く無い。変な言い方だけれど、、
お父さんが教えてくれた様に、自己責任がとっても明確で、だれをもなにをも怨めないという状況、人間のエゴで動かす「機械」のひとつである「車」。

そんな当たり前だけどいつのまにか生活に密着し過ぎて感情の一部みたいになっていた事。自然がまずありき、道路を整備しない行政を恨んだり、他のドライバーや道路条件を恨むのは筋違いであるという、
当たり前の事を教わった。
それも自然のやさしさ、お父さんのやさしさ、底なしの懐のひろさだろう。

、、はぁ、、情けない。。
でも子供が無事で良かった。。。

保育園で一生懸命「くるまがごろーんっておちてん」とせんせいやおともだちに宣伝してくれている。
怖い思いをさせて申し訳なかった。。。

posted by 農夫見習いパパ at 15:41| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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