2011年04月28日

連続体

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冬に色を奪われて、色相が単調になった土の上に、明るく暖かいスポットが広がる。
それはまるで、乾ききった夏のコンクリートの上に落ち始めた大粒の夕立の雨粒のように、
みずみずしい潤いを色に変えて、匂いが拡散してゆく合図のようなフキノトウ。

そして、あれほどあった雪は夢のように解けて無くなり、
その重みに押しつぶされた地面が動き出す。

水仙は希望の象徴。
梅や桜やこぶし、れんぎょうに、芍薬の新芽たち、木々の芽たち、、
そして虫たちの蠢き。

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ロマネスコというカリフラワーの一種。
雪の重みで茎が捻じ曲がり、葉が痛んでいたのに、その中にはかくも不思議なフラクタル。
今日の行いは、一月の行いと似て、一生の行いとまた似る。
自己相似の繰り返しは、外見上何のつながりも見出せないものであっても、結局は巨視的には過去にも起こり、未来にも起こること。
とどのつまりはどこへも行かず、何にもならない。

その振り幅が世界の豊かさであり、魅力である。
それは道教における対極図の在り様とよく似ている。
仏教の曼荼羅や、ケルトの文様。そして南米の織物。

しかし、それを大きく逸脱しようとするのは原子力の設備。
ちいさな存在である人間が、緻密に、時間をかけて積み上げたものを、一瞬で破壊する。
そして、時間をかけて押さえつける。

津波は違う。
海に家や畑をさらわれた人々も、代々住み継いだ其の場所と海を呪いはしない。
海からは命をもらい、生かされてきたから。
地すべり地帯や土砂災害にあう土地柄の人々も、長い長いスパンで、その自然と付きあってきた。
いまさら呪う事は出来ないし、そこに住まう事とそこから離れる事の意味も十分に判っていた筈。
その破壊の後には、また人間達がいとなみを繋げる場所が戻ってくる。

気候や天災によって仕事や、農業が出来なくなるのは「今までどおり」出来ないだけで、
消して「全く不可能になる」訳じゃない。
週末農業で、保証されすぎたお米作りが出来ないだけで、人間が生きてゆくに必要な食物はいくらでも作られる。
気持ちをくじき、折り曲げ、弱くさせたのは何か?

「甘え」のような気がする。。
えらそうなこともいえないか。。。

大都市に住まい、また、そこを離れる意味を正しく理解している人はいるだろうか?
はじめからそこに住んでいた人、「上京」した人。
仕事の為。生活の為。心の為。

人間の大きさを越えたものは、自然だけであるべき。
それは、経済であっても、エネルギーであっても、「便利」という「幻覚」から醒めて欲しい。
posted by 農夫見習いパパ at 16:23| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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