2008年11月30日

たべものと食品

県の食品安全対策室から、保健所を通じて「食品製造業」関係者向けの講習会が開かれ、出席してきた(臨時休業となり、ご迷惑をおかけいたしました、、)。

神音カフェでも「菓子製造業」の看板があるため受講必須なわけだが、話を聞きながら、食品を取り扱うものの基本的な衛生への取り組み(飲食店営業)とは違う次元の時代の闇を感じさせるものがあった。

昨今の食品汚染や表示偽装、それによって引き起こされた信じられない様々な健康被害。
食品は人のいのちにダイレクトに繋がる事なんだけれど、製造や流通、経営的視点からすると食『品』なんだなあ、『モノ』なんだなぁ、、
「添加物の一括表示」「一次加工品のキャリーオーバー」「製造者の良心」。。?

確かに、製造した場所と販売される場所が別個の場合、的確で正確な表示と説明は不可欠だと思うが、こうして講習会を開いて危機回避を図る事自体、『食』を製造する場面に精神性が欠落している顕れなんだとうなぁ。。と思った。

何かを「添加」しなければ安全を保障できない。
何かを「あいまい」にしなければ商品価値が下がる。
そしてそれらの『安全対策』はあまりにも機械的に、役所的に施行される。

食品は基本的に『生もの』。時間を置けば痛むに決まっているし、味だって落ちる。元来持ちがいいものもあるけれど、ほとんどの場合それは当たり前のこと。
大量に生産し原料コストや流通コストを抑えて利益を確保する。それを「お客様」へフィードバック??危険に晒した挙句の奪い合いの間違いでは??



しかし、結局のところそういう状況を作り出した半分の責任は消費者にある。疑わず買う、だまされたと騒ぐ。それはあまりにも無知で愚かな態度ではないか?

食についてどう考えるか?食とどう付き合ってゆくのか?その姿勢を一人一人が問われているのに、ライフスタイルもろとも画一的に操作されて振り回される。

資本主義経済の下、「消費」から知恵が奪われ「生産」出来ない国になった日本。連綿と繋がる人の営みを預かり、活動できる人々は自助努力をせず何を救うつもりなのだろうか?
少なくとも、自分達の老後、孫の世代のために何かを残してあげられる力は欠落してしまっている気がする。


菅池町。
ここに「今」生きる人々の生涯の生産活動は膨大だ。しかし老年の後期を向かえつつある今、それらはどこへ行ってしまったのだろう?
資産としての価値はほとんど無い。
誰がそれを言わしむるのか?

「農」の強さ「農家」の強さは、「食」を自らの「いのち」を自らが育み循環させる「力」を持っているということ。この知恵を引き継がせず、離れさせて失わせたのは政治なのだろうか?



『不買』と『生産』。それが僕の選択した道。
ひとつ品が売れないくらいで経済は変わらない。けれど一票。
ストレスの下、自分をすり減らせる生活で費やしたエネルギーを農作業の、農村生活のエネルギーに置き換えたらどれだけ豊かだろう?
そう考えて今、薪を割っている。
posted by 農夫見習いパパ at 22:49| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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