2008年10月25日

親が僕につけた名前「一樹」(いちじゅ)
自立し、足下の土と微生物、地表の虫や動植物を守り、風を受け天を目指す。自分自身がしっかと立ち、その前提の上で小さな生態系を循環させる「樹=大きな木=高齢の木」たれと。
逆に言えば、身の回りの環境が整わないと「木」で終わってしまい
「樹」にはなれない。
すなわち、自分が立つその環境を自分で整備し、身の回りの実に複雑で偉大な自然と早くに協調し溶け込まなければならない。
人の上に立つとか、事業を成し遂げるとか、友に恵まれるとか、身近な想いは込められないが、自己中心的だったり、場当たり的だったり、賭けに出るようなことは許されず、律せられ、縛られている。

名によって。


思えば僕の環境というものへの意識や流れてゆく時間への考え方にはこの名前が深く影響している。

父親に名前の由来を聞いたことは何度かあるが、その意味を繰り返し聞いたのか、それとも早い時期から自分の名前が気にいって意味づけしていたのか。。
少なくとも幼稚園時代は「いちじゅなんておじいちゃん(と思った)みたいな名前は嫌だ!」といって「かずき」と読んでもらっていた。
おかげで未だに帰省すると父も母も「かずクン」と呼ぶのでなんだか可笑しい。。(自分で「イチジュ」とつけたくせに)

小学校も高学年頃から、中学生時代は美術が得意で「人と違っていること」が心地よく、違っていることを周りの人々が「認めて」くれているように(都合よく)感じていた。
このころからすでに天然の楽天家、シアワセ者の兆候はあったのかもしれない。当然「イチジュ」という変わった名前が誇らしかったし、いちいち意味を説明して得意げになっていた気もする。

「ゲド戦記」や「ナルニア国物語」「指輪物語」を読みつぶし、自然と魔法、神(意思)と人間、そして生き方と名前(アイデンティティ)について夢想する中学高校生時代。

大学に入って、必死になって自己同一化を図っているそのとき、両親は離婚し父親が仕事仲間にだまされて抱え込んだ借金で、早急に自立する必要に迫られた。未だに育英会に自分で学費を返し続けている。


自然由来の名前をつけられて、さらに、なんだかタイソウな哲学的な仕向け。本の虫、パソコンの虫、仕事の虫の父親の仕業。



父は「直樹」岐阜の自然を愛している。渓流の美しい自然の中に幼少時にしょっちゅう連れて行かれた。父親も子供の頃金華山の雑木林を走り回り、川で泳いで育っていった。今彼は趣味の鮎つりを通して自然と関わってはいるけれど、その接点は本当に小さなものだ。(仕事の虫)

だけどそれを僕が引き受けている。

自分の名前を気に入っている。
名に恥じぬ生き方をしたい。


posted by 農夫見習いパパ at 21:02| Comment(0) | 菜園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月21日

快適とは

okinawamurasaki.jpg

エアコンとモードファッション、ハイテク新素材の低価格アパレル。
カッコ良く快適に『纏い』室内空間を自然の気温に抗って操作する。

とはいえ、石油由来の製品に長期的な見通しは望めなさそうだし、天然素材にしても経済の大きな流れのうちにほんとうに身近なものは失われてきている。。



たとえば、化学調味料。
旨みを感じ取るレセプターへ効率的に反応する「グルタミン酸」等のアミノ酸類。最近は『化学調味料無添加』とうたっていても『たんぱく加水分解物』や『○○エキス』なんかで味の複雑系を表現しようと工業製品のように食品が製造されている。それが当たり前になっている。

『食』への関心が高い時代と言われるが、人間の生態としての根源に関わる割りに経済活動と消費に大きく左右され「選べない」のが現実。逆説的だが強い意志をもって「選ばない」消費者の責任でもある。



たとえば高気密住宅。
これもハイテクの粋を行く低価格、高品質(といわれる)新建材で密閉された空間。オール電化で空調を効率化し、バリアフリーで「人にやさしい」空間を創造。30年で建て替え、住み替える現代的な住宅消費のスタイルに従い当たり前のようになっている。

結果。大手がパッケージ化した建材・工法以外の「町の職人(大工・戸大工・左官・瓦屋。。)」が排除され伝統的な技術や知恵が消えてゆく。これを文化破壊と言わずしてなんという。



『快適だから』『おいしいから』『心地いいから』

果たしてその感覚は本物なのだろうか?
街中や住宅地に住む人々から『不自由』とひとくくりにされる田舎、山里の暮らしに入って感じるのは、生き物として人間としての不安定で揺らぎのある日常に対して、自然界には無い化学的に生成された食品を日常的に摂ることや、森や林にあふれるエネルギー溢れる空気をわざわざシャットダウンするのは無意味であるということ。
プライベートと人間的な暖かい交流やつながりの喪失、経済成長と車社会と空気汚染。コンビニと光害・生活時間帯の崩壊。
それらを加速させるのはいったい何なのか?
感覚を鈍らせるものは何なのか?



こんなことを書くとあたかも里山の文化伝統に深く傾倒し、ストイックに生きているような印象を与えてしまうかもしれないが、そんなことは無い。
むしろ、コンビにでもファミレスでも普通に利用するし、冷凍食品もスナック菓子も食べる。多少の罪悪感を感じつつだが、それらで真に「おいしい」とか「快適」であると感じたことは無い。
仕方ないから、もしくは考えたくないなどの逃避行動に近いものがある。
世の中皆が逃避してごまかしあっているとすれば、これはとても悲しく切ないが、この家に住んで、この町に生きて、自然と寄り添っていると『家』のもつちから『自然』与えてくれるバランス感をしっかりと享受出来、壊れそうな自分を支えてくれているような気がする。


何よりこの場所での暮らしは「快適」そのものであるからして。


写真は今年初めて育てたサツマイモ「沖縄紫」本数は少ないもののいい芋がちゃんと出来た。けど、何かの間違いか花をつけたので珍しくて写真を撮った。サツマイモ農家の方に「確か花をつけると芋自体の味が悪くなる可能性が。。」と言われたものの、その方でさえも見たことが無いという「花」
異常気象を騒ぐのは大抵街の人。昔から時を間違える動植物はあって、村の人は純粋に見て楽しむ。
posted by 農夫見習いパパ at 10:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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