2008年04月26日

結い返し

ボランティアという言葉はどこか偽善的で押し付けがましいニュアンスがあるような気がする。無償で労力を提供する、無償で知恵を絞る、無償で時間を(経済を)提供する。。

そもそも、自立した人間が社会的に地域に助けられ、その「恩」を返すような形でなにか私財や労力を提供するのには相互関係を深めるものとして理解しやすいが、学生やモラトリアム的家庭人が、本来その人のなすべきつとめが解らず、また、時間をもてあましたり、精神衛生上やファッションで自分の今かかわっている現実とほとんど接点の無いような場所での「ボランティア」を語るケースが多いためそういうイメージが生まれたのか。。


過疎高齢化が進む山間の町に住み続ける人たちは、一人一人が「家」を守る柱としてしっかり立っている。人が足りないのだ。
でもだからこそ、責任もリアルだし、経営感覚にも優れている。
何代も続く「お家」のフローを考えて今後の流れをもつかもうとするその『心』はとても強いものであり、その礎となるのは「結い」という日本の相互扶助の精神の結晶を現実に体験してきたことだろう。

「結い」には必ず「結い返し」が必要である。
相互的であるからこそ、本当の痛みも喜びも分かち合い絆が生まれる。「損得抜きに」は、些細な損や得にこだわらず、すすんで繋がろうという意味だと思う。共有の財産があり、共有の想いがある。

しかし残念ながら、この「結い」は日本全国で同じくしてもっと大きな社会の変化の力には敵わず、、結いは戻されることなく散らばってしまっている。。

それでもまだ戻すことは出来る。戻すことにはとても深い意義がある。

背景を知らず、もともとの結いも無く、深くかかわろうともしない軽い「ボランティア精神」は長期的には意味が無いのではないだろうか?
ひとの暮らしは繋がってゆく。子供たちは地域の共有財産であり、地域はそれを迷わず大切にし、表現する。
どこの馬の骨ともつかぬ僕のような人間でも同じ想いを知り、分かちあうことでとことん大切にしてもらっている。
申し訳ないくらい、、

「申し訳ない」だから、僕は出来る範囲で「返し」続ける。
続けられるよう無理はしない。
それを許し抱擁するほどのやさしさと豊かさを備えているのがこの「菅池町」

この菅池町に新たな住人が増えそうだ。
休耕地を活用し大豆を作付けし、その大豆で豆腐を作るという職人が移住を希望しておられる。僕と同じ世代で「結い」を知ろうとし、実践しようとしておられる。

本当に楽しみで、是非実現してほしい。
そうなればまことに心強いし、町がさらに明るくなる。


、、僕がこの町に引っ越して1年と少し、その間にもう4回もお葬式があった。僅か27世帯の町。「限界集落ー数年で無人化する恐れがある過疎高齢集落」。ここに住む僕にとっては秒読みの危機感とせなかあわせに、絶対的な安心感のような、暖かく力づよい感覚に守られて未来を確信する気持ちがある。
posted by 農夫見習いパパ at 00:11| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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